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よそはよそ、うちはうち2

今回は、少々ストレスマネジメントについて触れてみたいと思います。

ある仕事で失敗…したわけではありませんが、周囲と折り合いがつかず、悶々としていた時期があった頃の話です。ある人に「人は人、自分は自分やで」というアドバイスを受けたことがありました。けれども、当時の私には今イチ心に刺さらず、よくある説得内容だと聞き流していました。

アドバイスをくれた人の言いたいことって、要するに

 他人からの承認欲求を捨てよ

ということだと思うのですが、人はそんな簡単に承認欲求を捨てられるわけではありません。誰かに褒められれば嬉しいし、誰かにけなされたくはないものです。ある意味、脊髄反射の一部のようなもので、承認欲求を失ったらその瞬間に成長は止まると思っていた時期もありました。

承認欲求とは

他人から認められたいとする感情の総称です。人は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになります。この感情の総称が承認欲求です。

承認欲求は、主に子供や何らかのハンデキャップを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向があるそうです。その反対に、自閉症などの他者とのコミュニケーションが難しい、あるいは既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認を必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えないみたいです。

これらの理由から、承認欲求は先天的な欲求ではなくて、対人関係を学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高いといえるでしょう。つまり、自分の考え方、努力の仕方次第で、どのようにでもコントロールできると言うことです。


自己承認欲求を持つだけでも案外イケる

成長は、今の自分に不満がなければ、なかなかできないものです。そりゃそうですよね。今の自分に満足していたら、成長するための努力すら不要と感じてしまうでしょうから。

すなわち、モチベーションの原動力は承認欲求でもあると言えます。

だからこそ「承認欲求を失ったら他人にも他のことにも関心がなくなり、人間としての成長性まで失ってしまうのではないか」そんなことさえ思っていた時期がありましたが、これも自分の中でさんざん考え、ある発想の転換で納得できるようになりました。それが、

 「コントロールできないものにコミットしてはいけない」

という考え方です。ここでいう「コミットする」は、依存するみたいな解釈だと思ってください。自分の気持ちはコントロールできますが、他人の気持ちはコントロールできません。だとするとコントロールできない他人の判断や決断、さじ加減などにやきもきするというのも、なんだか関心か努力の方向が違う気がしたのす。

他人の決めること、思うこと、考えることに対して、私には決める義務も資格も権利もありません。ですから

 答えのない問題は悩んでも仕方ない

わけです。これは真理じゃないでようか。

人間、できることしかできません。できないことはできません。だから、今できることをやるしかありません。それでもなんとかしたいなら「できる」ように努力し、「できる」実力を身につけるしかありません。ですが、「他人の意思や思想をコントロールする」ことは、基本的にどうやっても無理です。

他人の行動をコントロールすることはできますよ?

相手より、身分/権限が上になって命令すればいいだけです。そうすれば、行動はコントロールできるでしょう。ですが、「YESと言え」と言うことはできても、「心の中からそう思え」と言うのは無駄ですし、無理なものは無理です。

精いっぱい努力した結果、そこから先、その内容を他人がどう思おうが、どう評価しようが、そんなことは関係ありません。他人の意思決定にコミットはできないのですから、他人から見た自分という評価軸にどうこう言うのも同様で、コミットできません。

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とは言え、そう考えるようになったことで、私自身が承認欲求を失ったのでも、成長に無関心になったのでもありません。

 承認欲求を自分自身に向けて持つ

ようになったのです。つまり、他人からの評価を気にするのではなく、評価軸そのものを自分自身の中に確立するようになったわけです。そうすると、自然に

 「よそはよそ、うちはうち」

と言う発想になりませんか?

他人の考え方をコントロールできない以上、他人にこれ以上何を求めると言うのでしょう。他人がどう思うかではなく、自分が自分をどう評価するのか、どうやって満足するのか…それだけです。評価は絶対評価相対評価がありますが、どちらでもいいと思います。

オススメしたいのは、相対評価です。かなり短期間で自己承認欲求を満たしやすいからです。たとえば、

 「今日の自分」が「以前の自分」と、どう変わったのか?

という、そこだけを問うていく場合、ちゃんと自らが望む方向に変化できていれば、ほんの少しずつでも日々、自己承認欲求は満たされます。

単純な話ですし、技術的に難しい話でもありません。誰にでもできることで、地味な内容でもありますが、その地味さこそが凡人のためのストレスマネジメントなのかもしれません。


評価軸を疎結合にすると心が解放される

ソフトウェア開発の現場では、モジュール間や機能間において、"密結合""疎結合"なんて言葉が飛び交うことがあります。密結合であればあるほど(結合度が高ければ高いほど)、互いに深く結びついていて、たとえば

 ・テストをする際は、どちらか一方だけ実施するということができない
 ・片方を修正する場合は、必ずもう片方も影響を受ける

と言った状態になり、スケジュール進行が非常に難しくなりやすいと言うリスクを抱えることになります。

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作り手の頭の中はシンプルに考えることができるので楽ですが、ソフトウェア開発の世界で「まったく修正しない」とか「まったくテストしない」なんてことは絶対にないため、必ずと言っていいほどリスクが顕在化し、現場はシンプルに考えるメリット以上に作業負担が増えるデメリットを抱え、ブラック化していった歴史があります。

だから、今この業界では(古い考え方の人には難しいかも知れませんが)、基本的に疎結合なタスク管理や、疎結合なモジュール構成などを検討することが非常に重要視されています(そもそもオブジェクト指向の基本原則でもあるのですが)。

これらは『結合度(依存度)』の話ですが、人間関係でも同じです。

人間観での結合度(依存度)が低くなればなるほど、他人に心も人生も振り回されなくて済みます。たとえば、男女間のつきあいも「結婚」と「恋人」で結合度が変わりますよね。「結婚」した場合に別れようと思うと面倒な法的手続きが色々必要になってきますが、「恋人」であればさほど労力をかけずに別れることが可能です。つまり人間関係の『結合度』に大きな差があるんですね。これと同じようなものです。

もしも「評価軸」を他人に依存せず、自分の中で作り、自己満足のためだけに承認欲求を定義できれば、

 「他人に認めてもらいたい」
 「他人に褒められたい」
 「他人に気にしてもらいたい」

と言った、コントロールできない現実にイライラすることも、モヤモヤすることもなくなるのではないかと思うのです。つまり、周囲との関係性において結合度が低い状態を維持できるので、他人に振り回される機会がグッと減って余計なストレスに悩まされなくて済むことになるわけです。

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