意識高い系のままでいないために
結論から言えば『残念なタイプ』のことです。
少し掘り下げると、
"意識の高い人" ⇔ "意識高い系の人"
は全くの別物です。本当に意識の高い人は内面的な「意識」が高いということで、具体的には
視野が広く、
視座が高く、
視点が一方的でない
人に多いと言われています。
たとえば、ビジネスにおいて顧客目線に立って見ることを「顧客の視座に立つ」と表現したりします。常にそういった目線の置き場所を模索する人はフットワークも軽く、行動力が伴います。
結果、"有言実行"が自然と身につき、行動した分だけ実力が底上げされていくことになります。
ビジネスの世界を見渡すと、ここ数年で「意識高い系」という言葉が当たり前のように使われ始めてきました。「意識高い系」とは、
となっています。
とはいえ、高い意識を持つことは悪いことではありません。
実際、2000年代半ば当時は就職活動の場面において使われ出した「意識が高い学生」という言葉は、
「能力が高く、知識も経験も豊富で優秀な人材」
という意味を持ち、ネガティブなイメージはありませんでした。
ですが、SNSが浸透し始めた2010年頃から「意識高い系」は、その行動力が空回りしポイントがズレているにも関わらず、自己顕示欲の高さばかりが目立つという意味で揶揄される対象へと変化してきました。
では、もともと肯定的に捉えられていた「意識が高い人」と、その後揶揄される対象となった「意識高い系」との間にはいったいどのような違いがあるのでしょう。
端的に言えば、次の図がすべてになります。
このギャップが大きければ大きいほど、周囲からは苦笑される存在となっていきます。
やや観念的な言い方をすれば、『意識も行動力も高い人』と『意識だけが高い人』の違いと言えるでしょう。
本来「意識(が)高い」とは前者を表す言葉ですが、そこに行動や結果が伴っていないため「系」という文字がくっついてしまうわけです。努力し意識を変えていく行動力の欠如を端的に表現しているのが「意識高い系」ということになります。
本当に意識が高い人たちから見たら、同じ分類に数えられているように見えて本意ではないかもしれませんね。
ゲーテの言葉にもあるように、生きた結果ばかりを気にするから行動できないのは意識高い系の人にはそのような特徴があるのかもしれません。
本当に意識が高い人は、結果を気にする以前に、まず自らしっかりと生きようとします。失敗を恐れず、繰り返し挑戦し、それでも努力するからこそ結果的に大きな違いとなって現れるのだと思います。
社会人として長く勤めてきた経験も踏まえて言うと、どの年代にも同じような傾向を示す人はいます。割合もそれほど多くは変わらないのかもしれません。
私たち40代半ばを中心とした世代は、そうした人を「評論家」と呼んで揶揄してきましたが、使う言葉にカタカナが増えると「意識高い系」に変容するのかもしれません。
意識高い系の人は、基本的に自分本位で思考し、行動します。いえ、厳密には行動しません。弁論ばかりが先に立ってその後が続きません。だから経験値が少なく、経験値が少ないからこそ、実力が伴わないのです。
しかも相手目線に立っていません。
そのため、意識高い系の人は言葉の節々にそれとわかるサインが出てきます。
それが
「カタカナ表現」
です。
とにかく横文字を使ってる自分がかっこいいと思って陶酔しているのか、コミュニケーションにおいて相手が理解する/しないに関わらず、横文字をまくしたて始めます。
言葉から、なんとなく意味が読み取れるものはまだいいのですが、そうでないものも目新しいからという理由でなんでもかんでも使い始めると、逆に白けてしまうものです。
意識高い系が特に連呼したがるフレーズには次のようなものがあります。
まぁ、殆どが業界用語なのでIT業界からしてみれば普段から使う言葉も多いかと思います。私も、8割近くは使いますし、使うケースもあります。
ただ、意識高い系にはなりたくありませんし、言葉に振り回されたくもないので
・自らが実行できるものだけに絞る
・一文の中にカタカナ用語は一語のみ
・相手に伝わってなさそうな場合は即座にフォローする
ことは常日頃から気にするようにしています。
あくまで傾向の話です。
意識高い系の最も厄介なところは、そもそも実力が伴っていない…という点にあるわけですからこうした用語を使う分にはあまり気にすることはありません。
そもそも、上司や同僚から「残念だ、惜しい」と思われてしまうのはどのようなタイプでしょうか。何を改善すれば意識高い系から抜け出せまるのでしょうか。
一般的に上司や同僚から「残念だ」「惜しい」と評価されてしまう理由は次の3点と言われています。
(1)「意識高い系」、「残念、惜しい」等、両者に共通する要素
→言葉の質(低)・量(多)がアンバランス
(2)「残念」と評価される人
→言葉の量(多)と行動の質・量(ともに低)がアンバランス
(3)「惜しい」と評価される人
→言葉の量(多)と行動の質・量(ともにやや高い)がアンバランス
要はアンバランスを解消することが改善の方法となるわけですが、言葉の量を少なくするとリアルに"使えない人材"になってしまうため、
・相手目線を常に心がける
・言葉の質を高め、行動の質を高める
つまりは地道に努力を重ねる以外に方法はありません。
より多くの経験をして自らの血肉にできなければ、意識高い系から脱することはできません。
なんとなく知ったつもりになって、なんとなく上司や顧客に取り入っても、いずれ自らの責任を果たす実力がない壁にぶつかって本性を曝け出すだけです。その時になって実際に当人の実力を見ることなく採用した側も、可愛がってきた人も、後悔することになるのです。
アンバランスの解消をシンプルに解釈すると、質の高い「有言実行」ができていれば、周りから「残念な人である」「惜しい人である」といった烙印を押されることなく、自分自身が成長していくなかで正当な評価を得られるようになるでしょう。
いずれにしろ、肝心なのは
『自らが行動しているかどうか』
『その行動も良質な言葉に伴う形で良質な実行になっているかどうか』
ということになります。自身の行動力を見つめることで「意識高い系」を脱し「意識が高い」人物としての途が拓けていくと言えるのかもしれません。
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