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人生、いいとこどり

なんか週末は少し暖かくなりましたか?

いつも通り寒いかもと思って、ほんの少しインナー厚めに外に出かけてみたら、けっこー汗かきました。まぁ、運動になれば汗かいてもかかなくてもどっちでもいいんですけど。

さて、それはともかく、いいとこどりって良いですよね。

一石二鳥とか三鳥とか大好きです。なんかこう…人生を無駄遣いしたくないというか…貧乏性なんです。だから、「ながら」とか大好きですよ。いや、もちろんながら運転とかながら歩きとか危ないことはしませんけども。

きっかけはファミコン

そう、あのファミコンです。

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厳密にいうと、そのゲームソフトですね。私が初めてゲーム機に触れたのは「ゲームウォッチ」が初めてですが、本格的にゲーム機にハマったのは、はやりファミコンだったんじゃないかと思うんです。

ですけど、(今でもそうかもしれませんけど)親ってゲーム機に夢中になってる子供を決して良しとはしませんよね。学校の勉強しないからってことなのかもしれませんが、私に子供がいないせいでしょうか。「学校の勉強」とやらにさほど人生を助けられた記憶がないからでしょうか。

 「別にいいんじゃね?」

とついつい思ってしまうんですよね。むしろ、私自身は、キャラクターに感情移入することで感受性を、アクションやシューティングよりは戦略性の強いシミュレーションゲームが好きで、論理性なんかは、ゲームソフトから身につけたのではないかと思います。

そして、この「いいとこどり」と言う考え方も、ゲームソフトから学びました。ファミコン、ディスクシステム、PCエンジン、スーパーファミコン、メガドライブ、NEO-GEO、etc.…その裏で、PC-8801、PC-9801などのPCゲームが群雄割拠していた時代、私が中学~高校の頃だったと思います(この頃のバイト代、全部ゲームに消えたんじゃ…)。

この時、それぞれのソフトメーカーがこぞって、様々なゲームシステムを開発していました。Aのゲームソフトはキャラクターがいいとか、Bのゲームソフトはバトルシステムがいいとか、それぞれのゲームの要所要所が好きで、逆に悪いところもあって…当時の私はいつもこんなことを考えていました。

 「全部のゲームの、面白いところだけ集めたら、
  歴史に残るゲームができんじゃね?」

そして、「なんで各会社が共同で1つの傑作を作ろうとかって話にならないんだろう?」と毎日考えていました。ビジネスモデルの色々を知った今では、まぁ理解できるんですけど、中学、高校の時代には全く分かりませんでした。

こうしたことは今でも思います。

RPA1つとっても、CMS1つとっても、グループウェア1つとっても、A社のこのUIで、B社の機能があって、C社くらいセルフカスタマイズ性に富んでいて…全部のいいとこだけ揃っていてくれれば…いつも悶々とします。「いい加減、自分で作ったろかな?」なんて。

まぁ、私にはデザインセンスがないので、仕様が固まれば作るだけなら簡単なんですけど、UI/UXは壊滅的かもしれません。


趣味・性癖が異色のコラボ

元々、日本人らしく蒐集癖と言うか、なんでもコレクションするのが好きな子供でした。まぁ大人になっても基本的には変わりませんけども。

切手やビックリマン(まじゃりんこ)シールなんかはもちろん、牛乳ビンのふたとか、テレホンカード、ご当地タペストリー、ご当地ちょうちん、etc.…色々集めていたと思います。好きなマンガのJumpの表紙なんかも集めてました。社会人になった直後は、日本酒やワインのラベルなんかも奇麗にはがして集めてました。

そういえば…オンラインゲームもハマってた頃は、色々試したりしながら情報集めてたなぁ。あと、生産素材のアイテムなんかも超貯めこんでました。自分で使わなくても、誰かが不足して困ってたら「そんなこともあろうかと」と言って差し出したくて集めるだけに没頭してた時期もありました。

話は戻って。

先ほどの疑問と、蒐集癖が見事にコラボして、

 知識(データ)の蒐集

まで始めてしまったんです。色々なゲームの色々な面白いところ、面白いという評価の高いゲームを買うなり借りるなりして、実際にやってみて、それをノートに書き貯めて、「いずれ自分で作ってみようかな」なんて考えながら、たくさんの「いいとこ」を集めていました。

私の「いいとこどり」の原点です。

 「いいところ」だけ集めれば、「いいモノ」になるはず

それが、まだ子供だった時に私の中で導き出した結論でした。実際、この考え方が一側面として正しいケースも多々あります。

たとえば、「料理」。"食材"と"調理法"がいいものであれば、いい料理になるのは必然ですよね。もちろん、いい食材でなくても、料理人の腕次第でいい食事になることはありますが、だからと言っていい食材で作ったものが悪い料理になるというわけではありません。

ソフトウェア開発でも同じです。

あるシステムの一部の機能を改造する際に、元のプログラムが「トラブルプロジェクト」で作られたいわくつきのプログラムの場合、同じエンジニアから見れば目も当てられないような汚いソースコードになっている可能性は非常に高く、その後改造するにしても不良が混入しやすい、最悪物件なのはいわずもがなです。

きちんときれいに納められた「いいプログラム」の方が、改造しやすく、また長く、安定して稼働させやすいシステムなのは当然のことです。そして、それらを理解できる「いいエンジニア」がそろっていて、顧客要件に最も合う「いいアーキテクチャ」になっていれば、必ずいいシステムになるはずです。

いいとこ取りをすれば、常にいい結果に最も近くなるはずなのです。


大人になると、柔軟性を欠きやすくなる

しかし、多くの大人は社会人になると、自分と他人を比較し、自分をより良く見せようとするために、自分や自分の考えたもの、自分がよいと思うもの以外をすべて「悪い」ものだと思うようになります。

たとえば、「嫌い」な人がいたら、その人の「いいところ」まですべて否定します。料理の中に「嫌い」な食材や味があったら、その料理のすべてを「嫌い」になるのと同じです。人事などを見る場合、

 『適材適所』

を本気で行いたければ、P.F.ドラッカーが言うように

『人に成果をあげさせるには
 「自分とうまくいっているか」を考えてはならない。
 「いかなる貢献ができるか」を問わなければならない。
 「何が出来ないか」を考えてもならない。
 「何を非常によくできるか」を考えなければならない。
 特に人事では一つの重要な分野における卓越性を求めなければならない』

といった好き嫌いを用いるのも、ダメなところばかり見るのも忌避しなければなりません。重要なのは「いいとこ」だけを見ると言うことです。仮に「悪いところ」が見えても、それはそれ、これはこれです。きれいに分けて見ればいいだけです。そしていいところだけを最大限活用すればいいのです。

ですが、子供と違って、いえ子供でもそうかもしれませんが、それ以上に大人はこの「いいところだけを見る」と言うのが下手です。それは『仕組み』ではなく、『人』ばかりを見ているからです。

『人』は本人が自覚しない限り、なかなか「悪いところ」を改めるのは困難です。本人にその気がなければ、改善行動を起こさないからです。そのため、大人は「大人だからこそ、今の年齢でこれだと一生変わらないかも」とあきらめ、ダメな部分が及ぼすであろう『被害』ばかりを心配してしまうのかもしれません。

気持ちはわかります。

こと、モラル的な部分や思考的な部分に限って言えば、いい歳した大人がいまさら変わるとも思えません。だからこそ、そうした改善できない部分に目を向けると言うこと自体が無駄で、だからこそ、私はいつも改善できる部分だけで勝負したいと考えています。だから『意識』や『考え方』と言った属人的な部分には全く興味はなく、常に『仕組み』や『体系』など、論理的な部分にばかり目が行ってしまうのです。

 いいとこ取りをしたければ、
 決して個人に依存しない。
 個人に依存しなければならないところに期待しない。
 常に、個人に依存しなくてもいいところで構築する。

これが、「人生、いいとこ取り」と言い続けてきて、1つ学んだことです。

ゲームソフトの「いいところ」もすべて、人のアイデアから生まれたものかもしれませんが、最終的にアルゴリズム化されたシステムですもんね。私がいいと思ったものはアイデアではなく、あくまで形になったシステムでした。

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