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須田光彦 私の履歴書⑩

宇宙一外食産業が好きな須田です。

私のサッカー人生は小学校6年生の夏から始まります。
1学期までは少年野球の試合もありましたが、それもひと段落した頃にシゲちゃんに練習相手として駆り出されました。

始めは全くサッカーが出来なくて、ボールを蹴るのも上手くいかずに苦労しました。
でも、シゲちゃんは怒ることもなく、大笑いしながらいつもサッカーを教えてくれました。
シゲちゃんは運動神経が良くて、いつもドリブルで抜かされていました。

こうして小学校の最後にサッカーに出逢い、そこからサッカー絡みで、まぁいろんな苦労をしました。
でも、このころのサッカーは本当に楽しかったです。

私は、運動も好きでしたが、勉強も嫌いではなかったです。
幼稚園の時に厳しく母が家庭教師をしてくれたおかげかわかりませんが、小学校6年間は成績がオール5でした、本当です、姉弟して6年間オール5でした。

6年間通じて全教科5でした。
図画工作も得意で、絵も習字も良く展覧会に貼りだされました。
運動は全く問題が無く、何をやっても一通りこなしていました。

心理学の先生に言われたことがありすが、私は集中力が人並み外れているそうで、確かに子供のころからどんなものでも集中しだすと、寝食を忘れて没頭する子供でした。

有吉ゼミでご一緒した東ちづるさんに、「須田さんは過集中でしょ!」と言われたことがあります。

テレビでご一緒したことをきっかけに、仲良くお付き合いをさせて頂いておりますが、東ちづるさんは、LGBTの方やハンディキャップのある方のサポートを以前から熱心になさっています。
私もほんの少しだけお手伝いを、させて頂いております。

東ちづるさんはライフワークと仰っていますが、そんなご経験もあってか、私の集中力のことをすぐに見抜かれました。

その集中力の甲斐もあってか、小学区の間は成績が群を浮いて良かったです。
授業さえ聞いていればテストもほぼ100点でした。

一度テストの点数が80点の時があって、それでもクラスで1位でしたが、母にこっぴどく怒られました。

「こんな簡単な問題を間違えて、バカじゃないの!」と、いつもの口癖で怒られました。
クラスでトップだったと言っても、おかまい無しで怒られました。

本当に私を褒めなかった母でした。

成績は良かったのですが、落ち着きが無いなど、生活態度では色々とコメントが書かれていました。

適当に頭が良くてちょっと元気が過ぎる、そんな子供時代でした。

中学に入学すると、即サッカー部に入部しました。

そこで人生初めての先輩後輩という年功序列を強烈に叩き込まれます。

たった12歳と15歳、どちらも子供ですが、その当時の15際の先輩はもう大人に見えました。

当時のサッカー部は今とは全く違っていて、テレビドラマでもチョット不良の生徒がやるのがサッカーという時代です、先輩もほぼ全員がツッパっていました。

お決まりのリーゼントで、太いズボン履いてっていう時代でしたから、初めから先輩が怖くて。

練習は頑張りましたが、練習後のしごきが意味不明で、毎日それが続きました。
先輩が何かと難癖をつけて下級生をイビってきます。
ここでは書けないような酷い虐待を、何度も受けました。

シゲちゃんは絶対にしごきには加わらない先輩でしたが、3年生の1人だけが酷くて本当にそれが嫌なことでした。

そんなある日曜の朝方、急に強烈にお腹が痛くなりだして、どうにもこうにも寝ていられなくなり。朝方4時位に親に助けを求めました。

そのころ母は病院に勤めていたので、母が務める病院に自転車で行くことになりました。
腹が痛いって言っているにも関わらず、自転車で行けと母は言い日曜日だったので職員通用口から病院に入ったのを覚えています。

当然、宿直の先生しかいなくて診てもらいましたが、重度の胃痙攣だと言われました。

何かとんでもないストレスが無いかと聞かれましたが、先輩のしごきがとは勿論答えられません。診断書が出て、あっという間にサッカー部は休部となってしまいました。

折角シゲちゃんとサッカーが出来るはずだったのに、1年生の夏から2年生の夏まで医者の許しが出なくて休部しました。

その時のことが悔しくて、この経験が後々高校に入ってから、何が合っても途中で止めないことに繫がりました。

中学に入ってからはサッカーのことばかりを考えるようになっていましたが、サッカーが無くなってからはボーっとする毎日で、集中することもなく授業も聞き流す毎日となり、中学では平均からちょっと下の成績になっていきました。

中学2年の2学期からサッカー部に復帰しました。
サッカー部には先輩もいなくなり、シゲちゃんも現役は引退して時々小学校のグランドでサッカーをして遊ぶくらいになっていました。

シゲちゃんは1年の終わりからレギュラーで、右のウイングをやっていましたが、俊足ウイングとして活躍していましたが、サッカーはここで完全に卒業しました。
中学卒業後は大工になると、子供の頃から言っておりまして、自分が決めた通りに中学卒業後に大工さんの修行に入りました。

ここからなんと30年以上もシゲちゃんとは会えなくなってしまいました。

私は2年生の2学期からサッカー部に復帰しましたが、同じクラスに一番サッカーが上手い選手とキャプテンとその他2名のサッカー部がいました。

1クラスにそんなに固まることは珍しいことでしたが、これが功を奏して、キャプテン中心に自分たちで毎日練習メニューを考えて練習をするようになりました。

顧問の先生もいましたが、教育委員会か何かの担当になって練習には顔を出すことがなくなり、全てサッカー部の運営は生徒自身で行っていました。

このチームが秀逸で、まるっきりティール組織でした。

目標は全道大会出場、当時の実力からしたら到底無理でしたが、各人が課題を見つけ弱点をチームとして克服しカバーし、強みを見つけ、勝ちパターンを何本も決めるというものでした。

練習を休む生徒がいると必ず次の日、なんで休んだのか理由を聞いて、でも誰も怒らずに今日の練習に出ることの確認と昨日何をやったのか、君の担当は何なのかを説明するそんなチームでした。

2年の終わりから卒業までこのチームのメンバーは一度も喧嘩がありませんでした。
口論すらもなかったと思います。

このチームが本当に素晴らしくて、今でもキャプテンとは連絡をとっています。

私だけが東京に来ていますから、キャプテンさえ連絡がつけば何かの時には当時のメンバーが集まります。


当時市内には、2校無茶苦茶強いチームがあって、それは4中と5中です。
どちらも熱心に指導する先生がいました。

いよいよ3年生になって大会が始まります。
先ずは市内の大会ですが、なんと準決勝で5中、決勝で4中と当たりました。

下馬評では当然4中と5中のどちらかが優勝して、十勝支庁大会に出るのは確実だろうとみられていました、誰も私たち6中が快進撃をするとは思っていませんでした。

でも当の本人たちは、全く負ける気がしていなくて、チームとしての纏まりと戦術の理解度と完成度が高くて、勝てる自信満々でしたので、順当に帯広市の大会では優勝しました。

帯広市の大会で、準決勝・決勝と競合に勝ったことがより大きな自信に繋がり、十勝支庁大会までの練習は更に気合が入ったものになりました。

そして十勝支庁大会、ここで優勝すると全道大会に行けます、行けるのは1校だけです。
勿論行くのは自分たちだと、誰一人疑う者はいないそんなチームでした。

順当に勝ち進んで行って順決勝で5中と当たりました。
向こうも雪辱に燃えています。

この時の5中のキャプテンと、右のウイングが高校でもサッカー部として絡むことになりますが、この時はその二人の存在さえも気になっていなく、相手チームの一人としてしか認識していませんでした。

準決勝も順当に勝ち決勝は、4中でした。

前半1点先制して、後半始まってすぐに同点に追いつかれて、完全にチームの勢いは4中にありました。

この決勝戦は、私はベンチにいましたが、後半点数を取られた後に投入され、その数分後に決勝点を決めしたが、後にも先にも公式戦で点数を取ったのはこの1点だけした。


センターサークル付近でボールをもらって、ドリブルで6人抜いて最後はキーパーもかわして、まるでペレのような得点シーンでした。

ゾーンに入っていたと、今では思えます。

その貴重な1点で、目標の全道大会に出場出来ました。

16人の選手は有言実行してしまいました。

中学校始まって以来の快挙でした、当然、誰も6中サッカー部が優勝するとは思ってもいませんでした。

卒業したおっかない先輩連中も見に来ていましたし、シゲちゃんは仕事で来られませんでしたが、私の父も見ていました。

でも、私たち選手は絶対に行くぞと固い決意があったので、勿論、物凄く嬉しかったですが、勝って当然という感慨もありました、それぐらい自信があり戦術に長けていました。

この決勝点を取った時が、私のサッカー人生のピークでした。

このプレイが原因で高校に行くことになるんですが、高校では地獄が待っていました。


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