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須田光彦 私の履歴書 最終回

宇宙一外食産業が好きな須田です。

独立後は、本格的に業態開発に力を注ぎました。

それまでは、会社の方針にしたがった仕事の進め方でしたが、独立後は自分の思うまま、自由に仕事が出来ました。

そもそも、設計とコンサルティングの境目がない設計業務を行っております。

業態を理解し、業態特性を最も引き出すことをテーマに、設計をすすめてきました。
独立後は、開発業務に自然と力が入って行きました。

独立当初は、手書きで企画書を書いていました。
今考えれば企画の骨子部分だけを書いた、シンプルなものでした。
手書きだったこともあり、レイアウトもシンプルで視覚的に誘導するには力不足のものでした。


それでも、クライアントに業態を深く理解していただくためには、効果を発揮していました。
自分自身のためにも、業態整理が出来て有効でした。

それまで頭の中で整理していたことが、紙面で整理が出来、その内容をクライアントはじめ関係者と共有できることの有用性は強く感じています。

その後、企画書の作り方をあらゆる本を読破し、あらゆるセミナーを受講して、オリジナルのものを作り上げていきました。

いくつかのフォーマットを作り、業態に合わせて使い分けることも学びました。


特に、商品開発は力を入れてきました。

設計理論で繁盛店を沢山構築してきましたが、繁盛の継続を考えると、業態力の強さが必要になってきます。

レイアウトは効率的なものを構築出来ますが、内装はどうしても経時劣化を起こして来ます。
商品も時間が経過すると、毎日の作業に慣れてきて魅力が減少していってしまいます。
サービスも、業態への慣れからサービス力が低下していきます。

そこを補うのが業態力なので、業態開発は非常に大事になってきます。


コンセプトを強固なものにすること、流行を追わずに普遍的なことにフォーカスすること、サービスの本質を理解し、再現性と継続化を可能にするマニュアルを、しっかりと作り上げ活用することを重要視し、業態開発を行うようになって行きました。


これは自然な流れで、進行していきました。

フォーマットがしっかりしている業態でも、出店立地に合わせた内容に業態を微調整し、クライアントも気づかないような部分をケアし、繁盛業態にしてきました。

マーケティングの基本ですが、市場調査を行い出店立地の特性を分析し、市場にマッチしたレイアウトと営業方針などを店長にお伝えすることで、想定以上の成果を上げるお手伝いをしてきました。

独立後、業態開発に力を入れて、その開発した業態の効果を最も発揮するためのレイアウトの構築に力を入れて、店舗デザインと施工に関することは坂田さんに一任してきました。

ある程度デザインも決まり、いよいよ内装の素材を決める段階になると、坂田さんと二人で一気に素材を決めていきます。

店舗で使用する全ての素材を、数時間かけて決めていきました。

二人だけで共有できる感覚と言葉で、素材を決めていきました。
そのスピードは非常に早く、お互いに完成後のイメージも共有出来ていましたし、表現したい素材感も効果も一致していました。


そんな、非常に効果的で効率の良い仕事の進め方を、何年かかけて構築していきましたが、そんな坂田さんが大腸癌になってしまいました。


甲府のラグジュアリーカラオケ業態を受注した時に、施工の終盤になって体調の変化を感じていたそうです。

私が、その変化を気づけなかったことは、今でも悔やまれることですが、この現場の後に受けた検査で大腸癌が発見されました。

ステージ3でした。

すぐに手術を行い4週間後に復帰しました。

坂田さんから手術が成功したことの連絡がきたときは、嬉しさと安堵で自然と泣けてきて、事務所のベランダ出て、電話口でお互いに泣いてしまいました。

一旦復帰しましたが、その後腸捻転になり緊急手術もあり、癌も再発してしまいました。

2007年、2008年のことです。

仕事は順調でしたが、何かが変わってくることの恐怖がありました。
一番は坂田さんを失ってしまう恐怖でした。

2008年は不思議な年で、今まで仕事でのトラブルはほとんどなかったのですが、この年は受注する案件のほとんどがトラブルを起こしてしまいました。

業務の最終金額を受領できずに、何かしらのトラブルが頻繁に発生しました。

理由がわからず、何度も社内会議を繰り返しましたが、抜本的な改革は起こせませんでした。

今思えば、リーマンショックの影響でクライアントの資金調達がうまくいかなく、その事実を隠すようにクレームをつけて、支払いを回避しようというクライアントが、何社も連続しておりました。

数社の社長と売掛金の回収に関して協議をする中で、資金調達に失敗してそれを隠すためにクレームをつけ、支払いを免れようと考えたことを、伝えられました。

その告白を受けたとしても、必要なことは支払いを実行してくれることです。
しかし残念ながら、ついに実行されることがなく、2009年の3月に倒産してしまいました。

本来、売上はあり利益もしっかりと出ているはずなのに、売掛金の回収が出来ず手元資金が無く、キャッシュフローが全く回らなくなり、倒産してしまいました。


典型的な黒字倒産です。

でも、この時は面白い現象が起きていて、坂田さんと資金繰りを話していて、現状を考えると7,000万程度の案件を受注しないと危険だと話していると、9,000万くらいの案件が舞い込んできます。

これで何とかなると思っていると、最後の残金回収の前にトラブルになります。
残金20%が回収できずにマイナスが膨らんでいきます。

その結果、次は1億の案件が来ないとまずいなぁと考えていると、1億の案件が舞い込んできましたが、結果は同じことになります。

何を引き寄せているのかと、自分を内観しましたが原因に到達できず、現実は倒産となってしまいました。


坂田さんの癌は一旦小康状態になり、会社のこともスタッフのことも、勿論債権者との対応もありましたが、一番の心配事は坂田さんでした。

その後、裁判も無事終了して少ししたころに、坂田さんの奥様から電話が来ました。


「坂田が、須田さんに逢いたいと言っているので、病院に来てください」


覚悟を決めました。


この時は既にモルヒネを投与していて、意識の混濁が激しいと奥様から伝えられていました。
なので、私が行ったとしてもまともに話すことができないかもしれないと、伝えられました。

その状況の中病院に行きましたが、予想に反して意識はシッカリとしていて、いつものように冗談も言いながら話しました。

全身に癌が転移していて車椅子の状態でしたが想いの他元気で、奥様に促され二人きりで話すことになりました。

二人きりになると、言葉が出てきませんでした。

でも、言葉はなくとも、二人とも十分に繋がっていました。

この時、坂田さんがボソッと漏らした言葉を一生忘れることは出来ません。

私が今も頑張っているのは、この時の坂田さんの想いがあるからです。


この面会の2日後に、坂田さんは永眠しました。


あの面会の時だけ意識がハッキリとしたそうです。
面会後から意識は混濁して戻ることはなったそうです。


後々、奥様から教えてもらいました。


最後の最後に坂田さんは、戻ってきてくれたんだと思います。
最後に、言葉を残してくれたんだと思います。
最後の力を振り絞ってくれたと思います。


感謝などという言葉では表現できないほどのことを、最後にしてくれました。
会社の倒産が決まって先がなくなったとハッキリした時に、坂田さんと二人きりで話したことがあります。


その時に、色々と二人だけの話をしましたが、この後何をしようか、どう生きようかと坂田さんに質問すると、即座に答えを言ってくれました。


「スーはコンサルだよ!」
「これからは、スーはコンサルだよ コンサルとしてやっていけよ、やっていけるよ」
「普通じゃないコンサルになれよ」


ここでも、答えをくれました。


もう、「バーカ」とは、言ってくれませんでした。


ですから、コンサルタントになろうと決心しました。
師匠である坂田さんの言葉です。
NOはありませんから。


でも、倒産後は死ぬことばかりを考えた時期が、46歳から49歳までの3年続きました。

坂田さんに会いたいと、何度思ったことか。
正直、今でも思っています。


49歳の時にやっと復活すると決めて、今があります。


坂田さんが見られなかった景色を見ようと、
坂田さんと一緒に見ることが出来なかった景色を見よう、
決めました。


昔みたいに肩肘張って決める感じではなく、坂田さんみたいに軽い感じで決めました。

この「私の履歴書」は、私の成り立ちに関して、多くの方から質問をされることがきっかけで、書こうと決めました。

これまでの軌跡をお伝えしようと思い、書き出しましたが、途中から自分自身のために書いていました。

自分の想いを再確認するため、情熱を取り戻すため、もっと愛情をもって飲食業界の発展に尽くすため、それらを再確認し再認識するために書いていました。

書きながら何度怒りが湧いたことか、
何度泣いたことか、
その都度その都度、感情がよみがえってきました。

自分自身のルーツを、再確認していました。

今日は2021年1月1日です。

今月は、14日が坂田さんの命日、31日は母の命日です。

そんなタイミングで宣言します。


私は、今後の人生、飲食業界の発展ためにやれることの全てを行います。
私が生ある間に、外食産業を40兆円産業にします。
外食産業を支えてくれている各種産業を、活性化します。
外食産業と外食マンの社会的価値を、最大化させます。


これらが、本当は坂田さんと実現したかったことです。

私も、いつか人生の終焉を迎えます。

その時までに、この景色を見るため、今後の人生を一所懸命に歩んで行きます。

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