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須田光彦 私の履歴書②

宇宙一外食産業が好きな須田です。

生前母は、姉を産んだ後に体調を壊してしまい、子供が出来にくい体質になってしまったようです。
私の上にはもう一人兄弟が産まれるはずでしたが流産してしまい、その数年後に私が産まれました。

妊娠が出来ないかもと医者に告げられてから母は、屈足神社にお参りに行ったそうで、そのご加護のおかげで私を授かったとたいそう喜んでいたそうです。

時々「お前は屈足神社の神様が守ってくれているから」と、言っておりました。

母が亡くなった年の夏休みに姉と屈足神社を訪ねました。
母がお世話になったことの感謝と、亡くなって魂の世界に戻ったので宜しくお願い致しますという意味合いで訪れました。

その時、不思議なことがあって、私も屈足神社に行ったのは恐らく3歳以来だと思います、全く記憶になかったので記念にお社を撮影しました。

すると、何度撮影してもハレーションを起こしたように、お社から光が出て来てキレイに撮影が出来ませんでした。

遠景では撮影が出来ますが、近くに行って撮影すると神々しく光を放って撮影が出来ませんでしたが、母が言っていた「お前は屈足神社に守られている」ということが、まんざらでもない気がしました。

姉に写真を見せると「だからお母さんが言ってたっしょ!お前は屈足神社に守られてるんだよ、お母さんがお願いしたんだから、ホレ、守られてるっしょ!」叫んでおりました。

でも、心では「いやいや、倒産したし、離婚もしたし、えらい目にも合ったし、どこが守ってくれているんじゃい!」と思っておりました。

バチあたりの息子です。

3歳の時、父の赴任先が屈足から帯広に変更になったことで、転勤をすることとなりました。
春先だったことを覚えています。

引っ越す先の官舎は新築でしたが、建築工事が引っ越す期日に間に合わなくて、夏ごろまで母方の祖母の家に居候しておりました。

ここでの生活は、祖母と一緒に野菜を作ったり子供ながらにお手伝いをして楽しかったことを覚えております。

私の食の好みは、祖母の食生活が基本のようです。
味噌も漬物も常備菜も全て手作りでしたが、どれもとてもおいしくて、あらゆる味を体験させてもらいました。
自然の六味を毎日味わうことで、舌は鍛えられたと思います。
祖母の家の水は、地下水を汲み上げていました。

水の味もここで覚えたと思います。
夏に引っ越して、天然水から水道水を飲んだ時の違和感を今も覚えています。

引っ越してからも時々祖母の家に遊びに行きましたが、いつもダルマストーブの上には煮物があり、孫が遊びに来ると、漬物とお茶を出す祖母でしたが、おかげで今は漬物とお茶が大好きです。

母もお茶のみでしたが、晩年札幌の実家に帰ると母にお茶を入れるのが、滞在中の私の仕事でした。

母は肉が食べられなくて、若いころの出産にまつわる病気のせいかもしれませんが、でもシーフードカレーが好きでした。
帰省するとシーフードカレーを食べたいとリクエストされ、たまに作っていました。

葬儀も終わってひと段落した時に姉が、「光彦、お母さんにシーフードカレー作っちゃんな!」と言いだし、久しぶりに作りました。

煮込んでいるときに眠気に襲われてソファーでウトウトしてしまい、気がついて鍋を観に行った時に、なんと亡くなった母が鍋を覗いていました。

私にはハッキリと見えて、「そんなに食べたいのか!」と、声に出してしまいました。

こう書くと母と仲が良かった孝行息子の様に聞こえますが、全くの真逆で、生前は母を随分と苦しめました。
私は50過ぎまで悪態をつき、母からはついに怖がって電話にも出てもらえなくなりました。

親孝行などというものは全くしていなく、心配と迷惑ばかりをかけ通したバカ息子でした。

倒産した時に、全ての法的な整理が済んでひと段落した時に、3日間だけ帰省しましたが、それまで
一度も私を褒めたことが無い母がポツッと、
「あんまり頑張んでない、頑張りすぎると疲れるから、頑張りすぎるんでない」と、言ってくれました。

息子が必死で頑張っていたことを知っていたようです。
初めて認められた気がしました。

実は、母との関係は亡くなるまで改善はされませんでした。
母がもし亡くなっても啼くことは無いだろうなと思っていましたが、実際は真逆でした。

母は体調を崩して1週間で急逝しましたが、亡くなった日は横浜で商品開発のサポートをしておりガンガン料理を作っていた時に姉からメールが来て「もうもたない、時間の問題で今晩が山場だ」と告げられ、丁度開発も終了したので、クライアントのご厚意もありその足で羽田に向かいました。

その羽田に向かっている車中で、今亡くなったとメッセージが姉から届きました。

その時の心情は、「俺が帰るって言ってるのに、俺には会いもしないで逝きやがって、最後の最後まで腹の立つ母親だな」と思いました。
これ本当に思いました。
「最後の最後まで、めんこくないやつだな!」これが本心でした。

鬼のようなバカ息子です。

空港に到着して有人カウンターに行って事情を説明したところ、すぐに最終便の席を確保していただきました。
母が亡くなった日は金曜日でしたが、土曜日に帰る予定で土曜日の便を予約しておりましたが、そのチケットで金曜日の最終便に乗せて頂きました。

慌てていたので窓口の方のお名前を伺うこともせずに、後々あの時、対応して頂いた方のお名前を聞いてさえいれば、落ち着いてからお礼に行けたのにと後悔しました。

千歳について電車で札幌についてタクシーで姉の勤めている病院に向かいました。
母は姉の勤めている病院で亡くなりました。

地下の霊安室に母はおりましたが、本当に寝ているようで顔に触れるとまだほんのりと暖かくて、「ここじゃ寒いだろう」と声をかけてみましたが、勿論反応はありません。
冬でしたが、腐敗を防ぐためにもとても寒い部屋でした。

私は、気付くと母に頬ずりをしていました。
何かを感じたかったのでしょうか、無意識に行動しておりました。


ほどなくして姉が泣き腫らした目でやってきましたが、そこでの私の第一声は「葬式の手続きや届け出関係はどうなっている?病院と提携している葬儀会社があるだろう、リストを出させて!」
まるで業務命令です。

看病してくれていた姉へのねぎらいもなにも有りません、勿論涙もありません。

何故なら全く悲しくないので、今後の段取りや手続きなどが気になって、経営者のいつもの行動パターンで対応しておりました。

ここから自分でも驚きの体験をすることになりました。

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