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さようならソ連 / 「ノスタルジア」

僕がよく使う言い回しに、"理解していることなら、それを小学生にも伝えられる"というものがある。学んだことが血肉となっているなら、専門用語など一切つかうことなく、子どもにも理解させることはたとえそれが物理学の理論であっても可能である。僕はnoteで専門用語はもちろん耳慣れない造語も使っていない筈だ。それが僕なりの自負心である。
ところが、これはもう害悪としか言いようが無いのだが、世の中には難解な用語や横文字を連発することで浅学非才を誤魔化そうとする"インテリ"が山ほどいる。特に小説や映画を論じるような界隈は、この手の連中が幅を利かせていて、いったい何のコンプレックスなんだと訊きたくなる。
アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジア」についてnoteを書こうと思い、じぶんの批評を誰かに先取りされていないかな、と検索してみたところ、"ポエジア"だの"近代的前衛性"だの"詩的宇宙"だの、もう頭痛がするような有様である。素地がないくせに、あるフリをするからこんなことになるのだ。おそらく書いている自分でも何を言っているのか分かっていないだろう。
タルコフスキーは一昔前、難解ではあるものの"芸術的である"として、映画ファンなら"観るべき"監督であるという評判だった。黒澤明と親しく交流し、ソ連から亡命した映画エリートという経緯も相俟って、ずいぶん評価が高い監督だ。
さて、1983年の映画「ノスタルジア」は、ソ連を出国したタルコフスキーがイタリアで撮影したもので、本人はそのまま帰国することなく生涯を終えた。あらすじらしい筋書きは特になく、ただ美術館の部屋を絵画を見ながらゆっくり回るように、長回しのシーンが続く。
僕はこれを観て、詩とも言えるけどプルーストだな、と思った。Stream of consciousness と今日呼ばれている小説の技法であり、意識の流れと訳されている。これはフランスの哲学者ベルクソンらが言い出した新たなアイディアで、要するに近代からヨーロッパがこだわってきた"理性"のような、ロジカルなものを前提にするのではなく、直感であるとか"心の中のうつろい"を前面に出そうという発想である。それゆえに、この技法では必然的に独白(モノローグ)の占める割合が大きくなる。
「ノスタルジア」でも、主人公の寡黙なロシア人はまるで1人でいるかのように話し、聞こえてくる音声も、それが本当に話された言葉なのか、あるいは主人公の心の声なのか判然としないシーンが多い。
フランスの作家マルセル・プルーストはこの技法を使った「失われた時を求めて」という、読む気が失せるほど長ったらしい小説を書いて絶賛された。小説の各ページや映画のシーンが stream のように、取り留めのない話のように描かれ、「ノスタルジア」ではそこにキリスト教の聖像(icon 主に絵画)が差し挟まれる。
そういえば、タルコフスキーは水をよく映画の中で象徴として使うことの多い映画監督だが、水は stream 、すなわち流れるものである。
マルクス・レーニン主義のソ連において、タルコフスキーが心に抱えていたイメージはおそらくドストエフスキーのそれに近いものだろう。それがキリスト教であれロシアであれ、人間の"救済"はどのように成し遂げられるのか、というモチーフがある。「ノスタルジア」においては、狂ったような男はベートーベンの第九が流れるなか焼身自殺をし、主人公は心臓の病に倒れた。
この主人公の"ロシア的"な性格や、その文化について、劇中でタルコフスキーは"芸術は翻訳することができない"と問題提起していた。それに対してイタリア人の女が、どうすればいいの、と訊くと、国境をなくせばいいんだと主人公は答える。この発言を文字通り受け取ってはいけない。なぜなら、国境をなくせばロシアもイタリアも消えるからであり、いがみ合う冷戦は終わり、相互の意思疎通はしやすくなるかもしれないが、つまりそこには主人公の求める芸術がないということだ。タルコフスキーにとっての芸術とはソ連の求めるそれではなく"ロシア的"なものであって、シトー会(カトリックの一派)の修道院に座り込み、ロシアの雪が舞う光景のラストシーンによって、この作品でタルコフスキーはソ連にさようならを告げたんだな、と感じることができる。
はっきり言えば、これは映画というより妄想の産物である。もちろん、良い意味でだ。おそらく黒澤明はこの作品を「夢」の下敷きにしたと思う。ただ、おすすめの映画を教えて欲しいと言われて本作を推すことはまずないだろう。こんなものを推薦して、せっかく映画を観ようとしている人たちを映画から遠ざけてはいけない。自称映画ファンや、映画ライターや映画評論家を名乗る連中は、このことを肝に銘じるべきである。

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