現実という言葉が時代遅れに / 「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」
まだこのnoteを始めて間もない頃、「攻殻機動隊」はフィリップ・K・ディックの小説そのものだという記事を書いた。
ディックたちアメリカのSF界が取り組んでいた、ロボットと人の融合、ネットを介したコミュニケーションなどの課題を士郎正宗というオタクが下手な絵で漫画にしたところ、それを映画化した押井守は"ブレードランナーをパクっていないアニメはない"と、本物のクリエイターらしく正直にコメントしていた。
今日まで続くシリーズの原点となった1995年の映画「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」はアニメーション映画だ。僕はテレビで放送されている"アニメ"を観ることはないが、アニメーションを使った映画は幾つも観ている。
軽薄なシリーズ作品とは異なり、この映画とその続篇にあたる2004年の映画「イノセンス」は、押井守監督が観客に問いかけたいことがしっかりと提示されている。
現実という言葉は、どこまでを指すモノなのか、ということだ。これはディックのどの作品にもエコーのように響いているテーマである。
たとえば、ある人が左目と左腕を機械にしたサイボーグだった場合、その人は左目と左腕をコンピュータに依存している。ではその人の触れる世界とは、我々のようなサイボーグではない人と同じ世界なのか、ということだ。これをもっと分かりやすく言えば、カーナビや電子レンジなどコンピュータを介した生活が当たり前になっているが、ではそのコンピュータを脳とリンクさせた人を同じ"人間"として扱えますか、という疑問だ。
我々がよく"心"という言葉で表すような、個々人のなかに宿ると"信じられている"何らかの心理の作用を作中では「ゴースト」と名付けていたが、それは近代にありがちな、個人の領分を確保したいがための錯覚に過ぎず、実は全ては電気信号の集合体に違いないのではないか。
こうした問いかけは哲学というより倫理に近いもので、ロボットと人の境界線という問題に帰着する。なぜなら、ロボットはAIが思考しているからだ。ロボットに「人間とは何か」と質問すれば「いつまでも学習しないバカばかりの哺乳類」などと答えることだろう。では、AIを人間の脳に組み込んだ場合、その人はロボットだろうか。その人には責任能力があるだろうか。つまり、イーロン・マスクがニューラリンク社で研究している"人間のサイボーグ化"がどんどん現実味を帯びてきた昨今、ロボットという言葉は不要になりつつあるし、人間そのものがコンピュータによってアップデートされる世界になれば、もう「ゴースト」なんてものを考えることもなくなるだろう。その時には、いったいどこまでがリアルと呼ばれるだろう。
サイボーグの左目が映し出した前方のイメージは現実なのか。あるいは、ネットと接続された脳のなかで生まれる思考は現実なのか。このように、どこまでがリアルとして扱われるのかという課題が出てくることは容易に想像できるわけだから、そもそも我々が今日使っている real あるいは reality という単語もそろそろアップデートされる必要があるだろう。技術が先へ進むのだから、それを語る時に言葉は常に時代遅れになる。
「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」は約30年前の作品になる。この30年でコンピュータは指数関数のようにレベルを飛躍させ、劇中で描かれた技術のいくつかは実現された。押井守監督の「香港のような看板だらけの世界を近未来に」というアイディアは実にスタイリッシュな印象を観客に与え、「マトリックス」など多くのハリウッド映画に大きな影響を与えた。そろそろ新しい"現実"を描く映画が出来ても良い頃である。
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