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またの名をグレイスあるいは私

ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」が発表されたのは1959年。フィリップ・K・ディックが活躍し始める頃だ。米国のSF作家たちは、ベトナム戦争の前夜にこぞって知能や記憶、人格などといったテーマを突き詰めて考えるようになっていた。ここから影響を受けた後世の作品は枚挙にいとまが無いので、僕はSFという名のジャンルは「外界もの」と「ブレインもの」に分けて語るべきだと思っている。最近流行りの「三体」などはアシモフ以来の典型的な外界ものだ。
「またの名をグレイス」は使用人である女を主人公にして近代社会を描くので、一見するとフェミニズムやセクシズムという調子で語られることが多いだろうし、そうした側面がないとは言わないが、これはブレインものである。
グレイスと名乗る女が、雇用主とその使用人を殺害したか否か、このことが精神科医によるグレイスへのインタビューによって追及されていくのだが、そもそも供述とは全て「語られたこと」に過ぎず、グレイスの記憶が正確なのか、あるいはグレイスは真実を述べているのか、といった疑問がすぐに頭をもたげてくる。それに、記憶を改竄してしまえば、たとえそれが嘘であっても本人は真実として語るだろう。これは現代の司法制度に通じる根本の問題だ。
つまり、グレイスと名乗る女がグレイスであるかどうかも分からなくなってくる。他人になりすますことは今も昔も容易なのだ。では、グレイスと名乗る女と、その正体が別であるとして、その肉体としての違いは他人にとって何の問題があるのだろうか。
原作者のマーガレット・アトウッドはブッカー賞を二度も受賞した才能の持ち主で、近年ではテレビドラマ「ハンドメイズ・テイル」の原作(侍女の物語)者として有名になった。アトウッドは現実に起こったグレイス・マークスの事件を参考に本作を書き上げ、そのタイトルを Alias Grace とした。グレイスの供述を通して語られるストーリーが alias (またの名を、別名、偽名)であるのは、グレイスとは私でありあなたでもあるという、記憶と人格、そしてそれらを語ることの意義について問いかけているからだ。
「哀れな女が近代社会で抑圧されて殺害の罪に問われて収監されてカワイソウ」などというレベルの話ではないのだが、多くの人は物事の表面しか見ないものだ。何よりもグレイスと名乗る女がそのことを熟知していたからこそ、この物語が成立しているのである。

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