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日本人の異常な三段活用

こうして毎日、名作と呼ばれる映画や小説についてnoteを書いていると意外に思われるかもしれないが、僕はコメディが大好きだ。この列島には、"お堅い映画"が偉くてコメディは二流という序列があるようだが、それはテレビの害である。
こどもの頃、テレビで「裸の銃を持つ男」(The Naked Gun)のシリーズが放送されると、大喜びで見ていた。レスリー・ニールセン演じるフランク・ドレビンが時事ネタから映画のパロディまでやってのける姿を見て、「ドリフや吉本新喜劇よりこっちの方が遥かに面白い」と思っていた。英語をそのまま理解できるようになってから見直すと、また昔とは異なる感覚で楽しめる。
言うまでもなく、喜劇というスタイルはギリシアの古典から古事記まで、人類の歴史とともにある表現だが、この「面白い」には大切なことがある。見ている者がその可笑しさを感じるためには、演じる者と何かを共有していなければならないということだ。おそらくだが、火星でナンバーワンのコメディアンは地球でウケるわけがない。
たとえば、古事記のアメノウズメ(天宇受賣命)の話を例にとろう。アマテラスが天岩戸に引き籠った後、アメノウズメは桶の上で乳と性器をさらけ出して腰を低くし、足を踏み鳴らして踊った。すると、周囲の神々が全員爆笑したので、その声に驚いてアマテラスが天岩戸をそっと開ける、という話なのだが、これは当時の風習や風俗を反映しているからこその爆笑なのであって、現代の我々にしてみればいまいちピンと来ないはずだ。
あるいはキューブリック監督「博士の異常な愛情」を令和の中学生に見せても何が面白いのかさっぱり分からないと言われるはずだが、それは冷戦や核開発などの経緯を知らないからだ。
そこで、演じる者と観客の間で共有することを最小限にすれば笑いが生まれやすいのだから、吉本新喜劇やザ・ドリフターズがお茶の間を席巻することになる。つまり、安易な笑いだ。世界各地のコメディアンのように、マイク1本で観客に向かって何十分ものあいだ、時事から流行に至るまで笑いに変えるような技量は求められていない。なぜなら、この列島の人たちは幼い頃から安易なことに慣れきってしまって、少しでも何か言おうものなら「不謹慎だ」「傷ついた」「自粛しろ」の三段活用を始めるからだ。こんな所でユーモアやウィットなんて望むべくもない。
米国で大人気のコメディアン、たとえばデイヴ・シャペルがもし日本で活動したら1ヶ月以内に公演中止に追い込まれるだろうし、アレック・ボールドウィンは間違いなく刑務所行きだ。
成長するということは、より上質な笑いに反応できるようになるということだ。大声を張り上げているだけの”芸能人”とやらが映るテレビばかり見ているのだから、ユーモアのセンスが育たずにいろんなことが不謹慎に聞こえるのだろう。いや、脳が順調に成長していけば、この列島の地上波テレビを見ていられなくなるはずだ。

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