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ホストからキックボクサーへ①【きっかけ編】

なんでホストになったの?
なんでキックボクサーになったの?と良く聞かれます

それを今回書いていこうと思います

それにはまず

僕の生い立ちを知って貰う必要があります

何故ならそれが今に繋がっているからです

僕は1985年10月11日千葉県船橋市で生まれ
弟が2人、妹が1人の4人兄弟です
小学校一年生になる頃に両親は離婚
「新井」から「須田」になり
僕は母子家庭で育ちました 

小学校3年生位まで
群馬県(家の前は1面、田んぼで夜はカエルや虫の鳴き声のする様な場所)
埼玉県(近くに川があり自然豊かな場所)に住んでいました
小学校4年生から高校生までは千葉県習志野市に住む事になります

実は僕と1番下の妹とは年齢が15歳離れています
それは兄弟の中で妹の父が違うからです
妹の父とは小学校4年生位の頃から一緒に暮らす様になり
僕が18歳で家を出るまで一緒に暮らしていました
(恐らく母と籍は入れてはいなかったと思います)
僕が後々ホストをしたのはこの縁が関係しています

僕は習志野市の中学校を卒業
高校は千葉県ではなく東京都新宿区の高校へ
「地元じゃなく様々な人間がいる場所で揉まれろ」
と母が言っていたのが印象に残っています

そしてここでキックボクサーになるきっかけである
空手部に入部します
この当時1年生は6〜7名、2年生は3名、3年生は2名だったと思います
高校生まで自分は強い最強だ!位の事を思っていましたが
空手部に入り3年生の先輩(部長)と顔面有りの組み手(パンチやキック、ディフェンスしたり戦う事キックボクシングではスパーリングと言う)をすると攻撃が1発も当たらないのに
自分は先輩に攻撃されて何も出来ないでやられました
そしてトイレの個室に入り人知れず泣いた記憶があります

それから毎日練習を行いました
その間どんどんと1年生の部員はいなくなり
3年生の部長と練習、顔面有りの組み手を行っているのは僕だけに
最初は筋肉痛、スネで蹴るから痣だらけ、足捌きの練習で足の裏の皮も剥け、素手で突くので拳の皮は剥け血だらけ、棒術、小剣術、青龍刀の使い方も習いました(後で知ったのですが空手ではなく顧問の先生は太気拳の道場を持っていてその武術を僕は教わっていた様です)
そして1年生が終わる頃には毎日練習しているのは僕と部長だけになりました

部長が言うにはこれが空手部の伝統というか常識で
入部当初は10人位いた部員も
2年生になる頃には残っても1、2人
誰も残らない場合もあるみたいでした

ただ僕にとっては
基本練習をひたすら行い
身体の感覚が変わっていく事
そして組み手が単純に楽しく(部長とやる組み手は恐怖だったがたまに来る人とやる組み手)
強さとは?武術とは?っていう話しを先生や部長から聞くのが楽しく
この時に戦う時はどういう心構えが必要なのか
というのを教わりました

2年生に上がる頃に僕は空手部の部長になります
2年生から3年生になった空手部の先輩もいたのですが
卒業した部長が僕を次の部長に指名してくれていた様でした

そして、これから僕が部長の空手部が始まると思いますよね?

ですが空手部の顧問の先生は新しくできる
学校の校長になるという事で
2年生になると同時に
部活は空手部から少林寺拳法部に変わります

だから僕は少林寺拳法部の部長になりました

顧問の先生は日本体育大学の少林寺拳法部の主将だった方が着任して

その先生に教わる事に

少林寺拳法では人体の急所の場所、そこへの攻撃の仕方、目打ち、金的蹴り、関節の極め方、投げ方、受け身、歴史、心構えなどを教わりました

少林寺拳法は練習前に唱える言葉があり
これも教えの1つで心や考え方を学ぶのも
少林寺拳法です

「己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり
自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、浄きも浄からざるも自らのことなり、他者に依りて浄むることを得ず」

そしてここから初めて練習メニューなどを決め部員を教える立場になりました

これは17年前のことで

この時初めて格闘技を教えるという事を行いました

高校には行っていたのですが部活以外の事が頭にない僕は夜まで練習して
終電で帰る様な生活をしていた為
だんだん授業に出なくなり部活にだけ出るという
バカな事をして留年します

1年生を1回、2年生を2回行いましたが
もうこれ以上のお金は払えないという事で高校を辞める事に

それから僕は18歳でキャバクラのボーイとして働きます

これは妹の父の紹介でその父が働いているグループ会社に入社した為です

そしてこの時の繋がりにより僕はホストになります…

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