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放課後の旅 高校演劇の脚本について 第2回 演出について


 
peing.net/ja/suchanga 質問箱です。ご意見などありましたらお願いします。
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1 脚本が七割というたとえ話
偏屈な文章に付き合っていただきありがとうございます。あるひとつの高校演劇のつくり方ということで、こんな人もいるんだ、ふーんぐらいの気楽な気持ちでお願いします。
高校演劇は脚本が七割というのは先輩方からよく聞いた話です。高校演劇の同人誌に寄稿しながら、もとい頼み込んで載せてもらいながら言うのもあれですが、そんなものかな、と思っていました。まあ割合で考えること自体がおかしい(質と量の取り違え)のですが、観客が観るのは脚本でも演出でもなく、生徒が演じている姿、または演じている人間そのものだと思います。脚本も演出もそこに生きている人間を描き出す手段でしょう。前回も書きましたが、物語を紡ぐことにあまり興味がないため、筋に人が奉仕しているように見えるのをなるべく避けたい。脚本と演出は生きている人を現出させるための装置であります。

2 あて書き
基本的にあて書きです。この人がこんなことをすればおもしろい、という考え方であり、当人の性格や体験とは無関係です。部員のプライバシーには立ち入らないので体験を聞き取るようなことはしません。本人の主義主張にも関係がない。よく生徒の実体験に基づいているなんて言われることがありましたが、失礼、どこ見てんだろう。
劇の主題とも関わりますが、いわゆるトラウマ語りには興味がなく、過去に支配された人々、という設定は採りません。観客が観たいとも思っていません。なにか作り手の安直さというものを感じてしまいます。時折登場人物のトラウマ語りに客席がすーっと冷えていくのを感じることがあります。
あくまでこの役者がどのように役を体現してくれるのかという観点で、脚本を作っていきます。

3 高校演劇連れ去り系
前回形式に目を向けるということを言いました。形式の冒険は演劇の魅力です。何を語るかも大事ですが、どう語るかに他のジャンルではない、演劇そのものが現れます。しかしすべての形式はその形式で語るにふさわしい内容、テーマを持っています。形式自体がテーマを内包しているとも言えるでしょう。この形式を受け入れもらうことで伝わるテーマもある。演劇はメディア、伝達の道具ではなく演劇をすることに目的があります。演劇はテーマや思想を伝えるのだという立場は、思想を主、演劇を従とする考え方になってしまう。
高校演劇にも見られる、いわゆるエンタメ派も演劇を主とする立場。どちらかというとスタイルを守るという意味での形式の重視でもあります。もちろん、エンタメだからテーマを軽視する、メッセージがないというのは間違いです。エンタメだからこそ伝わるメッセージはあります。先ほども言いましたがそもそも質的問題に割合という量的な見方を入れ込むのがおかしいのです。
エンタメが形式保守派なら、形式の革新派はどういうものか。そこで、ここにスタイルの冒険をおこなう派閥を提唱します。演劇によってどこかに連れ去ってもらう、見終わってじぶんが変わってしまったと思えるような舞台を目指す、連れ去り系です。高校演劇連れ去り系。

4 社会がない
こまったことに社会がない。これはたぶんSF好きマンガ好きであることも関係していると思います。いわゆるセカイ系のはしりです。自分と世界の間のシャカイがすっぽり抜けている。あくまで創作での話ですが。社会や風土まで視野に入れると60分では足りなくなるということもあります。もちろんそのチームの志向の問題です。一から集団創作で話し合いや調査を元につくっているチームのことは尊敬しています。
 
5 高校演劇セカイ系の劇つくり
 いろいろ派閥をつくってしまいますが、高校演劇セカイ系について。とうぜん主人公は特殊な人生を生きている。(変わっているという意味でなく、スペシャルな人生、その人にしか送れない人生を生きている。つまりわたしたちと同じだ)観客は主人公に同調はしません。彼はあくまで個人として舞台の上で生きています。観客は主人公と空気を共有して、声をかけたり黙って見ていたりする周囲の人々と同じ視線を持つ。
 主人公はあえて今の気持ちを語ったりしない。じぶんの気持ちを語る人はなにか別の意図を持っていることは皆さんもよくご存じですね。気持ちを語るじぶんを見てほしいという意図。魂の表出としての独白や訴えは往々にして相当の技術を必要とする。演劇の嘘と観客が気づかないようにするには。
 周りの人々が黙って見ているだけで、観客には主人公の気持ちが流れ込んでくることがあります。観客が主人公を取り巻く人々と同じまなざしを持つようになるから。演技は感情の表現でなく、存在の表現です。

6 素舞台について
 何か語っているときよりも、だまって運命を甘受している人を見ている劇では、脚本段階から演出を考えていく必要が生まれます。おもに人物の配置を考えておく必要からです。やっと本題の脚本と演出について。多くの場合は舞台を9分割してどこに立つかを決めておき、なるべく台本に指定しておきます。(発表する脚本にはない)その多くは素舞台です。素舞台を好む理由は舞台を広く使って歩き回りたいのと、余白を使いたいから。舞台の端に立って余白を作ると、台詞の聞こえ方がまるで変わります。歩くことはそれだけで多くの比喩を生みます。また特定の役割を持った役を必ずその位置に置く、というのも劇を見やすくする手段でもあります。立ち位置は人間関係と人物の心的状況を表現するのに有効です。

7 一対他
 バスケットボールやサッカーをなさっていた方はご存じだと思います。どうやって数的不均衡をつくるかが勝負の鍵です。一対多のポジション、立ち位置の重要性です。舞台を飾らないくせに、台詞よりも絵で見せるべきという考え方を採っています。そのために必要なのが一対多の不均衡な関係です。バランスは悪い方がよい。立ち位置によって主人公が孤立していることを見せます。主人公は孤立します。だって主人公だから。

8 体の向き
 どんどん話が細かく技術的な問題になっていきますが、ここで重要なのは体の向きです。人と人との関係は対等ということはあまりなく、ここでも不均衡が現れます。関係を表す立ち位置と向き合い方の原則をつくり生徒演出にチェックさせるとどんどん稽古が進んでいきます。試行錯誤も大事ですが、生徒の大事な時間ですから準備や原則で補えるならそれに越したことはありません。かんたんに言うと、正対する=対立、相手に対してオープンにする(相手に対して体の側面を見せる)=関わりたくない・関心がない、クローズにする(相手に対して体の正面を向ける)=関わりたい・興味がある、です。

 ここで字数がいっぱいとなりました。次回は台詞について。

写真は甲府南高校演劇部の劇場、南風ホール(ほんとは研修室)


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