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放課後の旅・高校演劇の脚本について

季刊高校演劇 2023年春 が発行されたので、ここに同じ文章を掲載します。
peing.net/ja/suchanga 質問箱です。ご意見などありましたらお願いします。
ツイッターのアカウントは @suchanga

1 日々のミザンス
この文章は、一般的な戯曲の書き方を記したものではなく、ある特殊な事例(自分のこと)について述べています。まず高校演劇の脚本であるということ。演劇の経験は顧問から、師系にあたるものがほぼないこと。(勝手に師事しているのは共愛学園の荒井先生)何より同人の皆さんご承知のように、多少毛色が違うこと。特殊な例から一般を引き出すのは皆さん方が得意とされていることと信じて書きすすめます。

2 部活動ありきの脚本
当然のことながら、脚本は単独で成立するものでなく、ましてじぶんはすべて当て書きなので、部員と脚本は切り離せません。とうぜん演出とも、部員の演技とも切り離せません。くわえてできるだけ活動日は少なく、活動時間は短く、という顧問だったので、活動時間とも、演劇部の年間計画とも切り離せません。
脚本と、演出、演技、部活、年間計画、どれも独立して存在しません。大会が近づくと脚本選びを考えるわけですが、脚本が出発点というのは問題が多い。毎年集まってきた生徒が、大会までにどのような部活をおこなっていて、どのようなストロングポイントや苦手を持っているかによって自ずと脚本は決まっています。
時間も限られている中、汎用性のある訓練をおこなって演技を上達させるという考え方を取りませんし、そんな訓練があるのかどうかもよくわかりません。活舌の悪い部員が活舌をよくするより、活舌が悪くても成立する役、もしくはその部員のしゃべり方の個性が生きる役を当てるようにします。それを脚本段階から考えて書くわけです。
同じ場所に入れ代わり立ち代わり違う人間が集まるという特質を持った組織が演劇部なので、その高校独自の伝統や技芸の伝承があるとかなりアドバンスになります。毎年毎年この代の劇はという考え方でやっていくと一から試行錯誤を始めなければならない。試行錯誤は悪いわけではありませんが、演劇部員たちは高校生でありなかなか忙しく、演劇だけというわけにはいかない。映画も読書もしたい映画も見たいし、読書もしたい。だらだら過ごす時間も大切だ。しなくてよい試行錯誤もある。

3 高校演劇のなりたち(詳しい人意見をください)
 戦前に「生活綴り方運動」に参加した教員は弾圧されました。ありのままの出来事を描けば、とうぜんだれかにとって都合の悪いことも書かざるを得ないわけで、為政者にとって押さえつけなければならなかったのでしょう。それまでどう書けばよいかと教えていた作文が、何を書くべきか、という考え方に変わったことがわかります。文章の規範というべき文語から比較的規範から離れた自由な口語で書くことが、すでに形式から内容へ重心が移ったのではないでしょうか。演劇にも同じことが言えて、形式が自由になるとかえって内容が問われるようなことが起きる。
 高校演劇も、語るべき内容に重点を置いた教育演劇という時期があったのではないか。題材や主題など、まず何を語るかが主であり、どう語るかは従であるような。少なくとも多くの演劇部顧問はこのスタンスだったのではないでしょうか。
 
4 新米顧問ただしこのうえなく生意気
高校演劇部の顧問をはじめたころ、端境期で参考にする先輩顧問がいなかった、いても言うことを聞かなかった、新人類世代、ニューアカの洗礼を受け、ポストモダン思想をかじり、サブカル好きの身としては(おれおれ、おれのこと)、はじめて触れる演劇は、その形式(様式・文体)にしか興味を持てませんでした。演劇経験のないわたしが、この楽しそうなものにどう向き合えばよいかと思っていたところに現れたのが、平田オリザ氏の著作でした。なにしろ「言いたいことはないが、やりたいことはある」「主題が知りたいならいくらでもパンフレットに書いておく」と言ったキラーフレーズがいくらでも出てくる。
当然のことながら、すぐれた舞台はみなその形式(つくり方)がすぐれているし、それぞれの顧問が独自のスタイルを持っています。スタイルに無自覚で、演劇ってこうするもんなんでしょ、という姿勢がダメな舞台を生産する。

5 シナイの王国
では、脚本(演技・演出込み)を書くとき、形式をどう意識すればよいか。そこでまずしないことを挙げてみます。したくないことです。
ある人が「歳を取ったら説教しない、自慢しない、昔話しない」と言っています。これは高田純次。「コミュニケーションの感度を下げるのはこだわり、被害妄想、プライド」これは内田樹。三つ「しない」を挙げると、じぶんのスタイルとはなにか、おぼろげながら浮かび上がってきます。
以下にわたしがしないこと(ときどきはします)を挙げてみます。
・「小洒落たこと言わない、小難しいこと言わない、上手いこと言わない」理由は嫌われるから。あなた嫌われてますよ。台詞では面白いこと言わない。リアクションとか構造とか関係性で面白くする。ネット台本(一括りにできませんが)が思ったより面白くならないのはこのあたりが原因。
・「張らない、立てない、つくらない」これは台詞あるいは台詞回しのこと。日常で使うふつうの声で。台詞は立てない(括弧に入れない)。授業もこれで。現代口語授業。
・「ストーリーはあきらめる、大事な場面だけでつくらない(無駄な部分、ダレ場をつくる)、伏線は張らない」高校演劇は60分なので、物語を推進するための説明を入れたくなかった。そこでたとえば『全校ワックス』などは「唐突に告白が始まる」などと言われます。説明を面白くする技術がなかったですが、その技術身につけたくない。
「美意識とは嫌悪の集積である」そうです。わたしは何をしたくないのだろう、と考えるのは何をしたいのだろうと考えるより答えが出やすい。しないことを決めても世界にはまだできることは残っています。

ありがたいことに連載をさせていただけるそうで、次回は脚本と演出について、もう少し詳しく書きたいと思います。質問箱などを使って質問意見ください。次回に反映させます。 


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