昭和の暮らし:(3)居間

”床の間の部屋”とふすま1枚だけで仕切られた居間のことを書く。
ふすまは4枚だったか2枚だったか、あまり覚えがないが、2つの部屋をひとつの部屋に開放できるようになっていたように思う。
ただ、タンスなどを置いてほとんど締め切られていた。
60年代にはタンスがない部分から襖を開けて出入りしていたけれど、70年代以降はタンスが増えたのか、開かずのふすまになり、出入りはぐるっと台所経由だった。

居間は”テレビの部屋”と呼ばれていた。
”テレビの部屋”は、タンスを置くための木のフロア部分と、畳の床部分とで構成されていた。折りたたみのちゃぶ台と、テレビ、本棚まであって、冬はそこにこたつと石油ストーブを置いていた。

木が張ってある部分には、父の洋服ダンスと、引き出しが7~8段ついたタンスが二竿置いてあった。合計3つのタンスが東側の床面を占めていた。
(80年代に南側の庭に2階建てを増築するが、その時に暗くなるということで、居間に採光のための窓を開けた。その時にタンスを”床の間の部屋”へ移動させたので、両部屋を仕切るふすまを開けることがなくなった。)

ちゃぶ台は父母が新婚の賃貸時代から使っていたそうで、黒い足を畳んでしまえるようになっていた。そのちゃぶ台で夏の昼にひやむぎを食べたりした。

テレビは白黒で、ナショナル製だったような気がするが定かではない。
簡易アンテナがテレビの上に載っていた。

午後だと思うが、うつみ宮土理の「ロンパールーム」を必ず見ていた。大きなゴムボールのようなもので遊ぶのを羨ましく見た。遊びの合間のおやつの時間に牛乳を飲む様子が流れるのだが、白黒なので何を飲んでいるのかよく分からない。とても美味しいものを飲んでいるようすで、これもうらやましく見た。
父が仕事から戻ると、野球の試合を見るので、子供のテレビ時間は夕方までだった。

冬になると、居間の畳部分には絨毯が敷かれる。絨毯はベルシャ風で、四角い意匠がいくつも連なっていた。妹と私は、その四角をケンケンパの遊び場に見立てて、よく飛び跳ねていた。

記憶の最初のストーブは円形のアラジンタイプので、それ一台しかないので、全員その部屋で温まっていた。
ストーブは、その後箱型になり、こたつと併用していた。こたつがあると子供の遊び場が制限される。

おもちゃの記憶は、また別のときに書く。

小学校へ上がる直前のある日、庭に木の机が置かれているのを見つけて心躍る思いでそっと引き出しをあけてみた。何も入っていない、中古の机だった。両親がどこかからもらってきたらしい。
当時は「学習机」という机と本棚などのセットの机が売り出されていた。近所の友達もけっこうその学習机を買ってもらっていた。
しかし、私が買ってもらった学習用ではない木の机は、広くて重くて、学習机よりも高品質だったと思う。その机を、居間の庭側の窓辺に置いてもらって、時間割を貼ったり、教科書を置いたりした。新調した鉛筆削りも机の上に置いた。毎日、鉛筆を削って筆箱に入れた。赤い筆箱だった。

居間に置いたその机で、どんなふうに勉強したのかあまり覚えていない。2年後に妹が小学生になり、机は2人の姉妹の共有になった。低学年のうちは2人で使っていた。

次回は、居間の続きの台所について書く。