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海外移住資料館に行って学びになったこと箇条書き

住所
〒231-0001
神奈川県横浜市中区新港2-3-1 JICA横浜2F

開館時間
火曜〜日曜
10:00〜18:00

日米修好通商条約締結後、横浜長崎函館を開港→この3つが便利な港なのかなぁ
徴兵令発令時、留学してれば徴兵猶予が認められたので徴兵令逃れで留学する人急増
日本人がハワイに強制移住させられサトウキビ栽培させられた歴史あり→広島山口熊本福岡からのハワイ移民が多く、合計2万9千人が移民し、40%がハワイにそのまま居留した
広島の海外移住者めちゃ多い埼玉少ない
ハワイやブラジルに働きに行った男からの出稼ぎ送金が高かったので、出稼ぎ男を父に持つ母国の子供がいい教育を受けており、その現状をみた周りの人が自分もそうなろうと決意し移住を決める人がふえた

1900年代初頭、知識を持ち帰る為or出稼ぎで桑港(サンフランシスコ)、王府(オークランド)に移住する人が出てきた
その他漢字表記、沙港→シアトル 晩香波→バンクーバー
日本人でメキシコ開拓しようという政策もあった(頓挫した)
日本人移民が増えてきたことに危機感を覚えたアメリカが、1924年アメリカで日本人は帰化できないという法律を作られた
アメリカに移民することを拒否されたので次なる移民先としてメキシコペルーに行こうとしたが頓挫し、移住先はブラジルに落ち着いた
一次大戦後に不況になり、その不況対策の一環としてブラジル移民を増やした
33年間でのべ19万人ブラジルに移民 家族移住が多かった
ブラジル移住の船賃は無料だった
ブラジルにサンパウロに日本人だけの場所を作ろうとした

一次大戦後のヴェルサイユ条約のときに日本が人種平等条項を提出したが拒否された
第二次大戦でペルーは日本との国交断絶
戦後、移民した日系一世は敗戦した母国の援助をしたが、日系2世は日本人のアイデンティティを否定しようとして敵意を持っていた
1952年アメリカにおける日本人帰化が認められた
移住斡旋所が横浜神戸で開所
1899年までは旅券発行業務は東京大阪神奈川兵庫長崎新潟北海道でしかやってなかった→海外旅行する手続きは面倒だったので一般的でなかった
日本海外移住振興会社が南米に土地を買って日本人の移住の地をつくった
ブラジルはキリスト教なので安息日である日曜日も働く日本人に非難の声があったが、勤勉で実直だったので彼らから信頼されてた
日本人のブラジルコーヒー労働は最初は契約労働だったがそのうち日本人だけで自農し集団でやるようになった
不況時はコーヒーから綿花へ転向
野菜作りのノウハウがブラジルに入ったのは日本人の移民の影響がでかい
アメリカにおける林業は屈強なノルウェー移民が活躍していて日本人は採用されにくかったが、作業が丁寧な日本人は製材で活躍していた
日本人移住によってアメリカに浄土真宗が持ち込まれる、この浄土真宗は日曜学校が開かれたり、賛仏歌という歌が歌われるようなローカル化をしている
アメリカに移住する船に乗る前に病気を日本からアメリカに持ち込まないよう検疫場で20人1組裸にさせられシャワー浴びせられた
戦後も南米に6万人移民
第二次大戦で日系移民2世は日本ではなく生まれ故郷に忠誠を誓い、ヨーロッパの戦場へ向かった
ハワイではサトウキビ栽培移民から数えて6世まで誕生してる

↓昔のパスポート



感想
ハワイ、カリフォルニア、ブラジルになぜ日系移民が多いかがわかった
日本にも海外出稼ぎで子を養うという概念があった時期があったんだな、やはり日本も最初から移民を受け入れる側の先進国ではなかったんだよねと思い、いっそう今の現状を当たり前のものと思わないようになった気がした
本当はこの近くのシルク博物館にも行こうとしたけど横浜平日なのに人が多すぎて疲れたので一軒だけの訪問になってしまった←



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