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東京大空襲・戦災資料センターに行って学びになったこと箇条書き

場所

〒136-0073 東京都江東区北砂1丁目5-4

開館日

火曜日~日曜日

開館時間

10時30分~午後4時まで

休館日

月曜日(月曜日が祝日または振替休日の場合は原則開館し、火曜日に休館)

年末年始(12月28日から1月4日)

入館料

一般      300円

中・高校生   200円

小学生     100円

未就学児    無料

障がい者    無料


1944年

軍事施設攻撃→都市無差別攻撃に転換

東京の空襲は墨田区江東区の死者が多かった

マリアナ諸島に1000機くらい戦闘機待機

1942.4.18 日本本土初空襲 東京、横浜、名古屋奇襲→ドゥリットル空襲

1944.11.24 本格的な東京空襲開始 軍事施設攻撃という名目で武蔵野市にある中島飛行場武蔵製作所を攻撃開始

1945.3.10土曜日0時8分東京大空襲 墨田区江東区エリア→最も人口が集中している場所 隅田川沿いの街はその前から2,3回攻撃されてた 2時間半で10万人死亡

4/13-14 池袋北区方面空襲

4/15 大田区目黒区方面空襲

4/24 立川陸軍飛行場空襲

5/24 大田区渋谷方面空襲

5/25,26 世田谷区文京区四谷赤坂方面空襲

防空演習??と思ったら空襲だった

朝鮮人もたくさんいたが、土地勘が薄くて逃げ遅れも多かった

4月5月の空襲は3月にくらべたら死亡者が少なかった。理由として3月の惨状を見て疎開が進んだこと、初期消火をしないですぐ逃げたことがあげられる。

1945.8.2 八王子空襲

死ぬまいと必死で抵抗して死んでいるので想像よりもむごい死に方をしてる

ex,防火用水に何人も頭を突っ込んだまま死ぬ

防空壕は消化活動のために一時待機のために作られた場所で、命を守る場所、生活できる場所ではなかった

1942年からの空襲やミッドウェー海戦の敗北で危機意識が高まったが、東京の下町は海抜が低く、掘っても水が出てしまうため丈夫な防空壕作りにくかった

関東大震災で空襲された時の被害をシミュレーションしたのち、街路を広くしたり、公園を増やしたり災害に強い街にした。

満州事変のあと、ソ連からの空襲を想定し防空演習などが始まった

1937年、政府は焼夷弾による被害を軽視して宣伝し、焼夷弾落とされたら逃げずに初期消火することを法律で義務付けた。焼夷弾は最初だけしか破裂しないからその後初期消火を怠ったら火事の原因は怠ったものにあると注意喚起した。

1942の初空襲後、国民に防空壕作るよう指示

しかし庶民に立派な防空壕をつくることはできず、政府による強力な防空施設はその後も作られなかった。

戦争中は空襲の目標にならないよう、電灯に黒い布をかけたりして、暗い部屋で生活していた。

国債、宝くじで国民から戦費を調達していた

物資が不足すると食糧は配給制、衣類は購入制限がしかれた

14歳くらいから男女問わず、兵器工場や防空壕建設、疎開現場、末期には死体処理などの業務をさせられた。

1933年陸軍少年飛行兵が創設。志願資格は15歳〜19歳のちに14歳〜17歳に変更。

学童疎開された理由は、子どもが防空活動で足手まといにならず、将来戦力、労働力になれるようにおこなわれた。

東京からの疎開先は東北、北関東、長野が多かった

都内主な朝鮮人強制動員先

製鉄所、鉄工所、造船所、東京瓦斯が多かった

2007年から東京大空襲朝鮮人犠牲者追悼式が毎年おこなわれている

空襲後、航空機で都市から退避せよ、原爆発明したといった印刷物をアメリカ軍が撒いた。

ポツダム宣言前、降伏か本土決戦か意見分かれていた

1945年 ベトナムはフランスの植民地だったが、日本の占領下におかれた。ベトナムで作られた食糧が日本に持っていかれるなどで200万以上のベトナム人が餓死した

戦争終了後も一気に豊かになるわけなく、食糧難に襲われた。道端の食べられそうな草や生き物は全部たべた。来る日も来る日も空腹だったので空襲で死んだ方がマシだったと思うこともあった。

疎開中も子供は栄養失調、寄生虫、感染症でボロボロの身体だった。

戦争孤児も10万人以上、4千人以上が親戚や施設に預けられることなく独立生計していた。

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