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東京ごみ戦争未来館に行って学びになったこと箇条書き


住所:〒168-0072 東京都杉並区高井戸東三丁目7番6号
開館時間:午前9時〜午後4時(最終入場:午後3時30分)
休館日:日曜日 、年末年始
入場料:無料

杉並清掃工場は環八から工場につながる収集車専用地下道がある
入場扉前には空気によるエアカーテンが敷かれていて臭気の拡散防止がされている
焼却前のごみを溜めておくプラットフォームには2900台分のゴミを貯められる
ここでゴミクレーンを使って燃えやすいようにかき混ぜている
1台で2トンのゴミ

着火の時だけ都市ガスを使い、あとは自然に任せて燃やす
ゴミの下はゆっくり動いていて、灰になる頃に灰貯めに落ちるようになっている
灰は東京都の決めた積載場に最終処分
排ガスは濾過や消石灰など、5,6個くらいきれいにする工程を挟んでを通して硫黄や水銀など有害物をできるだけ排除して排出してる
排出される蒸気は発電機を使って有効活用
60000世帯くらいつくれるの電力が作られる(どのくらいの期間で作られるかは説明なし)
あまった電気は外部に売ってる

備え付けの足湯はゴミ燃やしたときの熱を再利用してる
清掃工場のまわりにはその他にも温水プール、温泉があって熱の有効活用がされてる

世界では年間104億トンのゴミがでてる
東京23区は年間277万トン、1日約800gのゴミを捨ててる計算
ただただゴミを埋め立てると二酸化炭素の20倍有害なメタンガスが発生して温暖化促進につながる

江戸時代のゴミ事情
始めは自分の敷地内に埋めたり、空き地や川にゴミを捨ててた
江戸が巨大都市になったことで処理が難しくなって船でゴミを運んで処分という感じになった
江戸のゴミ関連業者
紙屑買い→紙漉きで紙の再利用
焼きつぎ→割れた焼き物を鉛ガラスで修理
提灯直し→提灯を直す
古傘買い→骨部分は燃料、紙部分は味噌や魚の包装紙に
鋳掛屋→鋳物の修理修繕
取っかえべえ→子供が拾った金属をお菓子と交換してくれる
古着屋
灰買い

1950年ゴミ量は26万トンだったが、1975年には400万トンに激増した
全国のゴミ排出量のピークは2002年、東京23区のゴミ量のピークは1989年
昔の焼却施設は処理能力が低かったので生ゴミのような水分の多いものは効率を落とすため、生ごみとそれ以外でゴミの種類を分けた
生ゴミは収集時に収集者が鈴を鳴らして生ごみ回収の合図を出し、その時に各家庭が生ごみを収集車の元へ持っていくやり方だった(東京オリンピックの1964年までこのやり方が続いた)
生ゴミ以外の収集は家の前のゴミ箱から収集者があつめる
ごみの収集日は決まってなかった
東京オリンピック開催を控えていた1961年頃から収集日が決められた
(1964年東京オリンピックはよくこういった契機に出てくるなと思った)

1927年からゴミの埋め立てが開始された江東区の8号地は35年で満杯、1957年に埋め立て開始した14号地(夢の島)は9年で満杯になった
15号地(江東区)を次期埋立地に急きょ決めたが、すでに深刻な被害を受けていた江東区は反対。東京都が1970年までの全量焼却を約束ししぶしぶ認めた
1965年には埋め立て場にゴミ収集車が1日5000台がくるようになっていた。
しかしゴミ量の急増や各地での清掃工場建設反対運動による工場建設の遅れで間に合わなかった→それを聞いてなかなか江東区はオコな感じだった
埋め立て地であった夢の島では生ゴミからハエが異常発生し、江東区と東京都で焦土作戦やヘリでの殺虫剤散布がなされた

夢の島は戦後海水浴場として親しまれ、その頃夢の島と呼ばれるようになった。東京湾の汚染により使用されなくなり埋立地として使われることとなった

1939年東京市はゴミ処理場建設計画を立ち上げたが、戦争で中断、戦後再開したが相次ぐ住民の反対運動でなかなか思うようには実現できなかった
江戸川、葛飾、足立、志村、石神井、杉並、千歳、玉川、蒲田の9ヶ所につくる計画
1961年くらいから杉並に清掃工場建設を立てる機運が高まっていたが、1966年突如、高井戸の駅前、小学校前につくられることになって反対運動が活発になった
測量士を追い返すための見張り小屋やサイレン設置などおこなわれた
杉並工場が1番工事時期が遅れた
1973年、杉並区の住民が清掃工場建設会議を邪魔して中止にし、さらに建設が遅れると、江東区は杉並区のごみ搬入をしないとし、杉並区にゴミが溢れるようになった。
江東区の埋立地前では杉並区の車はいないか検問があり、杉並区の車は追い返された
この問題を受け東京都知事が江東区に赴き、杉並区の清掃工場建設問題を解決すると約束し、おさめようとした
こうして東京都、杉並区、江東区のあいだでギスギスしだした
杉並区は最新鋭の清掃工場を建てることを条件に1974年に和解し、1982年に20年の遅延のもと建てられた

1971年東京都知事がこの状況は東京都民vsゴミによるごみ戦争状態であると宣言し、清掃工場建設を強く推し進めることと都民の理解を求めた
→東京都が積極的にごみ問題に取り組むようになり、住民の危機意識も芽生えるきっかけになった。

新宿に清掃工場たてる計画があった

1970年くらいから光化学スモッグ警報が鳴るようになった

昔の買い物は家から買い物カゴもって出掛けて八百屋や肉屋をまわる。八百屋や肉屋は新聞紙や竹皮、薄い木の包装材である経木を使った

事前予約すれば実際にゴミ処理してる光景を見学もできるっぽい


満足感のある内容だったが、杉並区にヘイトが向かないよう説明を省いてる部分もありそうだなと思ってしまった

滞在時間:2時間くらい

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