蝉と夢日記

教室の窓越しに蝉の声が聞こえる。ちょっとうるさいが、夏のBGMだと思って聞けば案外許せなくもない。今は一限の授業が終わり、休み時間に入ったところだ。次は移動教室じゃないからひと眠りしようかと、俺は机に顔をうずめた。

教室の左端、窓際の中央当たりが俺の席だ。その右隣の席に神妙な面持ちで座るそいつは、徐に口を開いた。

「蝉って、オスしか鳴かないらしい。メスにアピールするために鳴くんだとさ。俺も叫んだら女子に好かれたりするのかなあ」

山田はちょっとアレな奴で、こんなことを真剣に言ったりする。夢見がちな高校生男子だ。かくいう俺もその例外とは言えないが。

「試しにやってみれば? 見ててやるからさ」

俺は肩越しに適当な返事をした。よし、と言うと山田は席を立った。なぜか嫌な予感がして体を起こした次の瞬間、俺の意識は飛んだ。
 
――目を覚ますと学校の屋上だった。仰向けで見る空は青々と澄み渡っている。雲は一つもない。そういえば仰向けになって空を眺めるのはいつぶりだろう、などと考えていると声をかけられた。

「お、目を覚ましたね。君、あのまま僕が助けていなかったらあと一週間で死ぬところだったんだよ。蝉みたいに」

俺の高校と同じ制服を着た男は言った。俺は体を起こしてそいつを見た。身長は俺と同じくらいで平均的だ。色白で顔立ちは幼いが表情に不思議な深みがあり、そのせいか彼の雰囲気は大人びているように感じられる。

「どういうこと? 俺は友達が叫ぼうとしたところから記憶がないんだけど。あと君誰?」

現状を整理するため、全てを知っていそうなそいつに俺は尋ねた。

「うーん・・・。すべてを教えようとすると時間がかかるから簡潔に言うよ。君の友人の山田君は蝉になったんだ。それから君の隣で叫んだ。そしたら、それを聞いた周りの人間が全員蝉になってしまったというわけ。僕は運よくそれを察知できたから、君だけを助けることができたんだ。それと僕の名前は海老名優斗だよ」

いよいよ訳が分からなくなってきた。山田が蝉になったことが既におかしいし、周りの人間を蝉に変えて、そしてなぜ海老名はそれを察知できて、俺だけを助けたんだ?

頭が混乱する中かろうじて思い出したことは、山田が女子に好かれたいとか言っていたことだった。本当にどうでもいい。それと、一応聞いておくことがあった。もしかしたら重要なことかもしれない。

「で、なんで海老名君は俺だけ助けたのさ?」

「それはね、それはね――」

そういうと海老名は俺に顔を近づけてきた。ほのかに柔軟剤の香りがする。

心なしか目が少し潤んでいて、呼吸が若干乱れているように見えなくもない。あと顔が近い。近すぎる。

そして海老名は言った。

「山田君のことがね、好きだからだよ」

海老名の口から発された言葉の衝撃に俺は一瞬体が固まった。

その時、俺の唇は海老名のそれと重なって――。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーー!!!!!」

目を覚ますと、ここが自分の部屋だとすぐに俺は理解した。それと同時に、悪夢を見ていたことも理解した。冷房のタイマーが切れていたこともあって、全身が汗ばんでいる。

意味わかんねえ、意味わかんねえよ・・・。何なんだよ今の夢!!

意味不明すぎて史上最悪の夢だ。

今、落ち着いて整理できる情報は海老名がゲイということだけだ。学校で海老名らしき人物を見たら、俺はきっとそいつを殴る。少なくとも警戒はする。

俺は体を起こし、近くの机に置いてあったメモ帳に手を伸ばした。今みた悪夢の概要をそれに殴り書きした。

海老名はゲイ、山田は蝉、と。字面だけでもカオスだ。

視界に入った時計を見ると、時刻はちょうど朝六時だった。身支度と軽い朝食を済ませ、俺は家を出た。


「おーっす、木下! なんか顔色悪いな! いつも悪いけど!」

学校で最初に話すのが蝉になった山田とは、俺の精神はもうぐっちゃぐちゃのメッタメタだ。蝉野郎め。

「おぉ、おはよう。昨日嫌な夢を見たんだよ」

「ほおーぅ、話してみ!」

山田が身を乗り出して興味津々に言うものだから、俺は話さない気にはなれなかった。こいつはこういうところがあるから憎めない。俺は悪夢の概要を山田に話した。変に脚色せずにありのまま。

「なるほど。それで結局、俺は女子にモテたのか? そこが気になるな」

やはりこいつは馬鹿だ。俺のファーストキスが男に奪われたんだぞ、夢の中だけど。それをこいつは何も聞かなかったかのように流し、自分の蝉の声真似の効果を知りたがっている。少しは友人の落ち込み具合を気にかけろよ馬鹿野郎。いや蝉野郎。

そうこうしていると教室の扉が開き、担任が入ってきた。それともう一人。担任はその男子に「じゃあ」と合図をした。

「皆さん初めまして。海老名優斗といいます。父の仕事の関係で、東京からこっちに引っ越してきました。よろしくお願いします」

担任から出席確認で名前を呼ばれるまで、俺は白目を剥いて放心状態になっていた。それ以降も、ホームルームは全く頭に入ってこなかった。一限までの空き時間に山田が俺に話しかけてきた。

「おい木下、海老名君にちょっと挨拶しにいこうぜ!」

俺の返事を待たずに山田はずんずんと海老名に歩み寄り話しかけた。人当たりのいい山田は海老名とすぐに打ち解けて談笑しているようだ。馬鹿のくせに優秀なやつだ。俺は山田に指をさされ、あいつが木下だと海老名に紹介されているらしい。

参った、今朝は頭が全く回らない。意識がぼんやりする。

海老名はゲイ、山田は蝉。

海老名はゲイ、山田は蝉。

海老名はゲイ、山田は蝉。

――今朝書いたメモの文字だけが頭をぐるぐる駆け回っている。

あぁそうだ、海老名に挨拶をしないと。

すると、自らの理性の検閲をかいくぐり、それは挨拶の言葉と混ざり合って口からこぼれ出た。

「海老名君はゲイなんだよね、よろしくね」

海老名はぽかんとしている。山田もぽかんとしている。ちなみに俺もぽかんとしている。周囲のクラスメイトから、その「ぽかん」は波紋のように広がった。視線が俺たちに集中する。

次に発された言葉は、山田と海老名双方の口からのものだった。 

「「お前、頭大丈夫か」」

今、この教室では蝉の鳴き声だけが反響している。







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