超短編「セールスマン」


 夜の公園で私は酒を飲んでいた。金曜日、会社で一仕事を終え、明日は特に予定もないから外で酒でも飲もうと思ったのである。コンビニで安い缶ビールを買い、自宅近くにある公園のベンチに腰掛けた。今日は空気がよく澄んでいると思った。その証拠に、夜空にはオリオン座が見えていた。上京してから星をみたのは久しぶりである。いい気分だ。自分にお疲れ様、そう頭の中で呟いて私は缶を開けた。そのとき、その男は歩み寄ってきた。その男は短髪でスーツ姿だ。時刻は夜の十時を回っている。

「お疲れ様です、サラリーマンの方?」
男は挨拶とともに聞いてきた。年齢は私と同じ三十代くらいだろうか。顔は渋みがあり、声は比較的低めで落ち着いている印象を私に与えた。
「ええ」
私は一人の時間を害されたことが一番気に食わなかった。その心を態度に出すように、あえて低い声で返した。足を組み、わざとらしく不機嫌な顔をした。この男はセールスマンだと確信したからだ。会社にかかってくる電話でもそうだ。興味が湧かないうえ、時間を割く面倒な話はしたくないものである。私の前に立つその男は右手にファイルを持ってはいるものの、本題を切り出そうとはしない。
「何を飲まれているんです?」
まだ一口も飲んでいない缶ビールに向かって、男は上に向けた手のひらを差し出した。表情は柔らかい。その仕草は滑らかで品性が感じられた。私の気持ちが一瞬揺らいだ。自分がかけたい言葉は決まっているはずなのに、良心が邪魔をした。一口、ビールを含んでから考え直した。いつもは感じるうまさはそこにはなかった。
「ビールですが――」
「何の用です」と私は言えなかった。自らの雰囲気や振舞いによって、男はその場を意図的に支配しているように私には思われた。そのせいで私は強気な言葉をかけることをためらってしまった。そんな私の心中を知っているはずはないであろう男は小刻みに頷き、「あぁ」と共感を示した。
「今日は金曜日ですからね、いいですよね。こういう時に飲むお酒は。私もここによく来るんですよ」
どうやら話を聞いてほしいのか、男は自分のことを話し始めた。もはやそのファイルを開く気はないようである。この男はセールスマンなのか、疑わしくなってきた。


 男は私の右隣に腰掛けた。ファイルは鞄とともに彼のそばに置かれた。座ってから数秒の間、男は背もたれに体を預けて、それから体を前へ起こし、肘を腿にあて両手の指を組んだ。多くの人が彼を目に入れたとき、おそらく考えごとをしているのだろうと思うような姿勢だ。その一連の動作の中にため息が混じっていたように聞こえたのは気のせいだろうか。うまくもまずくもない缶ビールを飲みながら、私は考えた。この男は何をしに来たのだろうか?
「いつも何しに来られるんですか?」
単純に、男が今日ここへ来た理由が私は気になった。セールスなのか、それとも私と同じように仕事の疲れを癒すために訪れたのか。うつむいたまま、男はすぐには口を開かなかった。その間は夜風で木々が揺れる音がよく聞こえた。少し肌寒い空気の中、私は男の返答を待った。思えば十数秒であったが、どうしてここまで待つ必要があるのだろうか。そんな疑問もありながら、答えに大した期待はしていなかった。すると、男はようやく口を開いた。
「この辺りは人気が少なくて、自然が豊かで落ち着きますよね。今日だって、都内では珍しく星まで見える」
顔は見えないままであったが、その声音にはさっきのようなよそ行きの感じは既にない。言葉には続きがありそうに思われたので、私は「そうですね」と返し、缶に口をつけたまま次の言葉を待った。
「今日あなたに声をかけなければ、私はきっといつものようにしていたでしょう」
全く何を言っているのかが私にはわからなかった。しかしどうやらセールスの話は切り出さないらしい。もっとも、この青年男性がなぜ同世代の私に声をかけようと思ったのかも定かではない。
「私、セールスの仕事をしているのですが、ここ最近は特に業績が悪くてですね。さっきまで残業していたんです。でも公園で一人酒を飲もうとしているあなたを見かけて。――最初は仕事をしようと思っていたんですが、そんな馬鹿馬鹿しいことはやめようと思いました。でもとりあえず声をかけてみようと」
「どうして?」
「でないと、いつものような行動に出てしまうと思ったんです」
「いつものような?」
「ほら、そこに林があるでしょう?」
男はさっきの姿勢のまま少し右を向いて、この道の向いにある木々が生い茂る辺りのことを言った。この公園は都の郊外に位置していることもあり、結構広い。ゆえに、人の手が届いていないであろう自然も多い。男が言った林はここからは百メートルほどの距離だ。そこは小奇麗に整備されたこのベンチの周りとは違って、やや不気味な雰囲気を漂わせている。そのとき、夜風と木々のざわめきを私は変に意識し始めてしまった。私は一人で酒を飲んでゆっくりと帰宅しようと思っていたのに、精神が暗く閉ざされた気分になった。それはこの男との会話によるものであることは言うまでもない。しかし、あの林が一体何だというのだろう。私はこの一瞬のやり取りの中で悪寒と疑問とに苛まれた。そして男は続けた。
「普段、残業に疲れたりすることは当たり前ですけど、それ以上に生活に光が見いだせなくなるような、変な病的な感覚に襲われることがここ数年よくあるんです。三十代で働き盛りだというのに、情けない話です。傍から言わせてみれば『それが社会人というものだ、大人になれ』で済むんでしょうが、私はそれにとうとう耐えられなくなってきている。そう思うんです。だから、あの林で――」
「首を吊ろうと、考えているんですか」
その言葉は私から発されていた。自分でもなぜかはわからないが、多分男にその言葉を発させることがどうにも私には辛く思えてしまったのであろう。
「でも、あなたはこうして何度もここに訪れているが首を括ってはいませんね」
私は男に疑問をぶつけた。男にはもはやさっきのような品のある雰囲気はなく、痛いところをつかれたようで、無気力にとうなだれるのみである。私は缶ビールをとうに飲み終え、今や、右に座るこの哀れな男を救わなければという一心で思考を巡らせていた。男はようやく体を起こし、私と目線の高さを合わせ、向かいにある小さな噴水を見つめた。街灯に照らされた水の芸術は神秘的だ。
「いざ縄を枝に縛り付けても、私はその円の向こう側に首を通すことができないままでいる。未練でもあるんでしょうか」
「それは私にはわからないですが、ただ一つ言えるのは、あなたはまだ生きたいと心のどこかで思っているんでしょう」
「生きたい――ですか。本当にそうなんですかね。現に辛い毎日だし、今日だってあなたと話してみようと思わなければきっと私は今日こそ――」
男の言っていることはどこか辻褄が合わない。死にたいと思っているのならば、なぜ私に声をかけようと思ったのだろうか。私にはどうしてもそこが引っ掛かる。一方で男はその矛盾に気づいてはいない。
「死にたいと思っているのならば、どうして人に話しかけようと思ったんですか?」
根本的な疑問を私は男に投げかけた。すると男ははっとした表情で、また一瞬の間うつむいてしまったが、それは考える仕草のようであった。再び体を起こし、男は口を開いた。
「寂しかったんです。毎日毎日、自宅と会社の往復ばかりで、外へ出ても契約なんて取れやしない。周りだって気の合う人間なんかいない。そんな日々に寂しさを感じずにいられますか?」
男は心の奥底にあるヘドロをかっさらうかのように、それを私に明かした。少し間を置いて、男は私について話し始めた。
「この公園で一人、缶ビールを開けようとするあなたの優しそうな顔が見えて、『いい人そうだ。自分はこの人と話がしてみたい』と率直に思ったんです。もしあなたが無表情で酒を飲もうとしていたのならば状況は変わっていたかもしれない」
男はその後、「ありがとう」と言って席を立った。家へ帰るのだろう。男の左手薬指にはシルバーの指輪がはめられていた。私は言い残したことがなかっただろうか。――あった。私には、彼に伝えなくてはならない言葉があった。席を立ち、私は真正面から彼の両肩を強く掴んだ。彼は少し驚きながらも、すぐに私と目を合わせてくれた。
「これだけは忘れないでいてほしい。あなたが今どれだけ辛くても、あなたが今後も死にたくなっても、あなたを大切に想ってくれる人がいることはずっと変わらない」
男は目を潤ませ、微笑んだ。


 公園の時計は十一時を指している。男が帰ってからも、私はベンチから離れずに夜空をずっと眺めていた。その夜のオリオン座は、今までで最も綺麗に見えた。


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