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一人で生きる決意

最近、「一人で生きる」という意識を持つようにしている。
その言葉は、一見頑固で寂しい気持ちなように思えるけれど、今の私にはぴったり。

結婚しないとか離婚するとか、そういうことではなく、意識として。
ただ、自分のことは自分で考えたり、自分の面倒を自分で見るという、当たり前のことを、やっと自覚できた未熟者です。

「一人で生きるんだ」と思ったのは、ここ最近の話。
私は、「結婚したら幸せになれる」「愛されることで生きることの全部が楽しくて楽になるはず」という、恋愛や結婚に過剰な期待を寄せている節があった。

なんとなく、自分が幼い頃自分の家族に守られていたように、いつか誰かが自分を守ってくれる。生きているだけで良いと言ってくれる。そうして、私は幸せになる。
一人でいるのは、そんな存在が現れる、それまでの間だけ。

その気持ちをはっきり言語化したことはなかったけれど、恥ずかしくも、そんな寄生欲のようなものが自分の中に確かにあった。

だから、誰か近しい関係の人が欲しかったし、パートナーには心身ともに近くにいてほしいと伝えてきた。

昔、母が言っていた「ちゃんと自立した人同士で結婚しないとだめ」の意味は、ずっとわからなかった。私は女の子だし、誰かに可愛いと言われて、一緒にいてほしいと言われて、その人のそばに居ればいい、それが私の幸せだ、と思っていた。

そんな、誰かの隣にいる幸せを求めすぎて壊れかけた時、私は初めて「一人で生きる」「自立する」という意識を持つことができた。私が抱える問題を解決するには、今はそれしかないと思った。

例えば仕事で悲しいことがあっても、みだりに表に出したりしない。相手の行動が期待通りではなくても、自分の機嫌は自分でとる。心身のケアは自分で行う。
今までの私は、それができなかった。ずっと甘えていたのだと思う。普段は穏やかにしていても、少しつまづいてしまうと一気にうまくいかなくなって、他人に甘えた。
精神的な自立なんか、たとえ意識したとしても3日経てば忘れてしまうような、軽い決意や意識だった。

それはきっと、自分のために自分で考えたことではなくて、誰かに見せるためだったり、一時凌ぎだったり、本心から必要としていなかったからだと思う。

「自分で自分を幸せにする」なんて言葉は、自己啓発などで見たことはあっても深く考えたことはなかった。

なんとなく寂しい気持ちや不安な気持ちのとき、他人にその気持ちを埋めてもらおうとするのではなくて、自分一人で埋める。時には頼ってもいいだろけれど、私は無意識の中ですでに頼っている前提があるので、せめて意識的には自立する。

あんなに依存的だった自分が、「一人で生きる」と自発的に決められたことが少し誇らしい。
まだ心細さを感じるけれど、今が一歩目だと思いたい。

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