中根すあまの脳みその18

我が家の体重計が死んだ。
わたしがまだ体重という概念に悩まされることなく生きていたころから、そいつは家にいて、側面につけられた電源ボタンを足でガンガンゴンゴン乱暴に押され、「いやそれはないだろ~」と正確であろう数値を疑われ、それでも毎日懸命に働いていた。彼(?)が口を聞けるとしたらきっと、中根家の面々への長年にわたっての愚痴や恨みがとめどなくあふれるだろう。
数日前、わたしは体重をはかろうといつものようにガン!と足で電源ボタンを押そうとした。いつもなら「ッピ」と慌てたように返事をよこすのだが、それがない。何度試しても聞こえるのはガン!だけである。ついに反抗期が来たか、「ぼくはそんな乱暴な奴の体重ははからん!」という声が聞こえた気がしたので、わたしはしゃがみ、いやみったらしいほど丁寧に優しく、指でそのボタンを押した。…無視。もう一度押す。…応答なし。
わたしは、思った。
体重計が死んだ、それはすなわち、どれだけ食べすぎたとしても「本当に食べすぎたのか」を証明する術がなくなったことになる。ついさっき泣く泣く食べるのを我慢した、チョコパイの存在が脳裏をよぎる。もしこの後わたしがチョコパイを食べてしまっても、それによって体重が増えたかどうか知るものはもうこの世にはいない。そう考えると体重計とは、わたしにとってかなり大きな存在だったのだと、彼がわたしの自由を、幸せを制限していたのだということに気づいた。夫を急になくして、悲しみよりも、すっかり自由になってしまった世界に驚き、失ってはじめて囚われていた自分に気づいた未亡人のような気持ちだった。

調子に乗ったわたしは、涙を呑んで別れを告げたはずのチョコパイを手に取り、頬張り、甘い時間を過ごしたのだった。
それからというものの、普段だったら我慢できているはずの誘惑に負けてしまうことが多くなった。「ま、いいか」といいながらご飯のおかわりをしたり、ポテチやチョコを欲望の赴くままに貪ったり、旺盛な食欲をどうにもできなかったのだ。わたしが普段、食べすぎることなく日々を過ごせていたのは、1日の終わりに体重をはかるという習慣があったからなのだと、ここで再び思い知る。わたしという人間の性質上、体重が増えていたら、罪悪感に打ちひしがれ、これでもかというくらいに後悔し自分を責めまくるのだが、知らぬが仏、体重をはからなければそうなることもない。まるで、夫が死んでから金遣いが荒くなり、あっという間に貯金はすっからかん、今まで普通に幸せな日々をおくることができていたのは、肝心なところで夫が自分を制御してくれていたからだと気づいた未亡人のようだと思った。
…さっきからよく分からないことを言っている自覚はある。

そんな生活が数日続いた。
わたしに通っている学校の踊り場には鏡があるのだが、ふとそこに映るわたしを見ると、輪郭がぼやけ、幾分か顔が丸くなったように見える。もともと丸いのは知っている。もとの丸さを考慮した上でそう思ったのだ。
わたしは反省した。自分にとってなくてはならない存在だった彼、もとい体重計を邪険に扱っていたこと。動かなくなったとき、何とも言えない解放感を感じてしまったこと。
新しい彼、もとい体重計を我が家に迎えたら、毎日欠かさず体重計に乗り、電源ボタンは指で押そうと誓うのであった。

そういえば、さっき買い物から帰ってきた母親の持つレジ袋に、チョコパイの箱が入っていた気がする。わたしがほとんど食べてしまったから、また買ってきたのだろうか。
…新しい彼がやってくるまで時間がある。
わたしはそう呟いてキッチンへ向かった。


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