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愛が溢れる

「愛が溢れでていますね。」と言われることがよくあります。恥ずかしながら自分でも、愛が溢れて仕方ないと度々思います。時には、自分の全てが愛でできているのではないかと思う程です。

それは、やはり幼少期からたくさんの人に愛をもらい、その愛に気付いていたからだと思います。

私の母は、子供達を守るために父の激しい暴力を受けても、明け方には田畑作業をする真似できない強さと優しさを持つ働き者でした。

真夜中であろうと容赦ない父の暴力は狂気としか思えませんが、子供達に気付かれまいと必死に声を押し殺して痛みに耐えている母の様子に、 広い家でしたが、私は一早く察して止めに入ったり手当をしていたのを思い出します。母は、私にいつも「ごめんね。ありがとう。」「助かるわ〜。」と痛みがあっても私を労う強い方でした。

雪が積もる日は、除雪カーが入れない大通りまでの細道800mくらいを空になったプロパンガスの丸型(今でもあるのかな?)に紐をつけて肩にかけて、子供達が登下校の時間前に何度も往復して道を作ってくれていました。(ずっと雪が降り積もるので、プロパン容器の重さで雪を押さえた方が、雪かきより早いと思い付いたということでした。)

朝から夜中まで、母の体はいつ休む時があるのだろうという感じでしたが、私が顔を見ると、いつも母は笑っていました。

忙しいのに季節の料理もよく作ってくれました。母のしめ鯖の押し寿司は、私の大好物でした。
高校の時は、その時に取れた野菜の天ぷらを友達みんなでお昼に食べる用にと煮たり、揚げたりして大きなタッパーで持っていかせてくれて友達にも大人気でした。

そんな暖かい母が私は大好きで喜ばせたかったので、小学校の頃から帰ると田植えなども手伝いました。小さな体の私のお手伝いに、道行く近所の人達は「偉いね〜」と言ってよくお小遣いをくれました。

小さな私はとにかく「ありがとう」と喜んで母に見せていたのですが、母も笑顔でお礼を言ってて、みんなが笑顔で、その場は、とても素敵な空気に包まれてました。

母が忙しく仕事をするため保育園に上がるまでは、よく親戚の家に預けられました。ある日、母の妹家族の家に預かられて3日目くらいの夜だったでしょうか。「私、お母さんの手伝いを何でもするから、お母さんの傍に返して欲しい。帰りたい。」とお願いしたことがありました。

叔母は、とても優しい方で、「そうだよね。でも今は無理なんよ〜。もう少ししたら帰ろうね。」と私をギューっと強く抱きしめてくれました。
叔母の私を思ってくれる気持ちがひしひしと伝わり、それからは、何処へ預けられても楽しく頑張ろう。私も今ここで頑張ろう。お母さんもおばさんたちも頑張ってるって思うようになりました。

今思うと、叔母の愛に感謝しかありません♡

他の親戚の伯母達も、「あなたのオムツを替えたりして育てたからうちの子みたいなものだわ〜」ってよく言ってくれます。
中学になると、会う度にお小遣いを手に握らしてくれます。そして、「これは、お母さんには絶対言ったらダメだよ。お母さんは無理してでも返そうとしてくるから。これはあなたにあげたの。いつも笑顔で頑張ってるから、あなたのお小遣いなの。いつも偉いね。お母さんを頼むね。」と伯母達は、可愛い妹の環境が分っているので、子供の私達はよくお小遣いをもらいました。
その伯母たちからのお小遣いは、勿論、私たち子供への愛、そして同時に頑張る母(妹)への愛だと直ぐ感じました。

私は、『何て大きな愛なの』と感動したことを覚えています。

中学校の時、父と母の離婚が成立し、私は中学2年の途中で名前が母の旧姓になりました。
その頃は、シングルマザーという言葉もない時代ですし、離婚している夫婦は周りに1件もない田舎でした。

名前が変わることに、先生方は気遣ってくださったのか、私は今のままの名前で卒業までいこうとなりました。私は大丈夫とその時思っていましたが、後々、ありがたいなぁと感謝しました。

大切な書類の苗字は変更してありますが、普段はそのまま変わらず前の苗字を使います。
先生方にとっても大変なことだったと思いますし、生徒1人のためにここまでしてくださったことは、感謝しかありません(இдஇ; )

卒業式も卒業証書は変更してありましたが、校長先生が呼んでくれる名前は今までと変わらない名前でした。

そのお陰で、あまり大騒ぎにもならず嫌な思いをすることもなく、楽しい中学生活を送ることができました。またまた感謝しかありません。

思い出しても、キリがないくらい私は周りの方の多くの愛で守られて育ってきたのです。

だから愛が溢れてしまうんでしょうね〜🌸

現在、私の子供達は3人とも看護師になりました。

私が保育士ということもあり、赤ちゃんのお世話も大好きです。そして、同居も長かったので、おじいちゃん、おばあちゃんのことも『可愛い』といって介護も一緒に快く手伝ってくれる優しい心穏やかな人に育ってくれました。

3人の子供達を育てる時は、自分の子供であるけれど、世界の大切な子供の1人1人だと思って育てました。
他所のお子さんも、自分の子供達もみんな地球の子供達だと思って何時でも愛で接してきたように思います。

愛は偉大です。この愛をくれた、おば様達に感謝しています。

私のような溢れる愛を、世界中の皆さんももらっていると思います。

その愛が見えるか見えないか、気付くか気付かないかだけだと思うのです。

こんな大きな愛を持っている女性の方々に100歳までも元気に笑って過ごして欲しいと願って、今の自分があります。

女性がみんな元気で笑顔になると地球ごと世界もみんな幸せになり、心豊かな子供達が育ちます。
きっと世の中の男性方も幸せになります。

女性はいくつになっても、溢れる愛で花を咲かせるパワーを持っていると思います🌸

愛溢れる話はまだまだありますが…長くてすみません。
今日は、私の愛が溢れる長い話に最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました🍀 ̖́

ps. 『笑う門には福来る〜♪』母と私の口癖