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旅香記Ⅺ_退職 もしくはパリ編に代えて

十二月二十一日から一月二日にかけての二週間、ヨーロッパを旅行した。その間の記録がこの旅香記である。
断片的ながらある程度旅の記録をまとめられた気でいるのだが、もう一章、これを書かずにこの記録を閉じるべきでないと思っていることを記す。

この旅行の間に、仕事を辞めた。

あまりにも狭い業界なので職場の仔細は省くが、そこは業界の中では世界一の仕事をするところだった。(その思いはヨーロッパ旅行を経てさらに強まった。)
その会社に私は大学卒業直後の一昨年の春から一年半勤めて、最後に二ヶ月間休職したのち、退職した。

それまでのこと

十月三十日月曜日から休職した。
直接の理由は、その日初めて受診したメンタルクリニックでそれを勧められ診断書をもらったからだった。てきぱきとした担当医の手によって、あまりにも呆気なく適応障害の診断書が出て、拍子抜けした。

メンタルクリニックに行くと決めたその日の朝は、自分がその日から会社に行かなくてよくなるなんて、思いもしなかった。
受診を決めた理由もよく分からない。
その週に憂鬱な仕事がいくつか会って、会社に行くのがどうしても嫌だったからか。
嫌なあまり前夜には「昏睡すれば会社に行かなくていい」と服薬を思いつき薬箱を漁ったからか。
そんな私を見つけた恋人が薬を多摩川に捨てて泣いたからか。
それまでは、自分が仕事に行きたくない気持ちなんて人並みで、病院に訴えるようなレベルのものではないだろうと思っていた。
そしてその朝も、その考えがなくなったわけではなかった。「服薬を考えたと言っても、本当に遂行したいと思ったら恋人の見ている目の前で薬箱を漁ったりはしないし、自殺未遂と言えるほど真剣な行為ではない」と思っていた。
それでも初めて受診しようと決めたいちばんの理由は、「自殺しかけたと言って病院に行けば少なくとも半日は休みが取れる」と思ったというのが、実際のところかもしれない。

十二月十八日_出発三日前

五度目のメンタルクリニック受診日。
会社から「休職して二ヶ月経つしそろそろ社長と一度面談か連絡をできないか」という打診を受けていて、そのことを相談した。
自分としては、進退の決断を迫られるようなことがなければ話せると思っていたが、病院では半ば叱るような勢いで止められた。私が社長のことを話しながら泣いたからだと思う。
「自分がなぜ泣いているのかよく分からない」と言ったら、「自分のマイナスの感情を押し殺す癖があるから、やめましょう」と言われた。「押し殺すんじゃなくてどうしたらいいんですか」と訊いたら、「言葉にしてあげることです」とすんなり返ってきた。

十二月十九日_出国二日前

会社に「社長に会ってもまだちゃんと話せなさそうです」と連絡した。「怖いらしいから」とも言いづらかったので、同じく病院で言われていた、「過剰に相手の顔色を見てしまって自分の考えを歪めて話してしまう」という方の内容を伝えた。
そうしたら夜になって社長から連絡が来た。休職に入って以来二ヶ月ぶりの連絡。LINEで届いたが、長大なメッセージだった。それまで会社関係の連絡は、自分で読みたくなかったので恋人に読んでもらって概要だけ聞くようにしていたが、このときばかりはあまりに長く論述的でなかったので自分で読んだ。
そこには「一度退職する道もあるがどうしようか」というようなことが書かれていた。
そのときはとても驚いたが、今考えると、私が「自分の気持ちをちゃんと言えるか分からない」なんて言ったから、「ほんとはやめたいのに言えないんだな」と受け取って先回りしてくれたのかもしれない。
驚きながら返信を考えたが、その日中には送れなかった。

十二月二十日_出国前日

前日の返信を送った。「たしかに退職する道もありますね、また戻ってこられるんだし」という、ほとんどそれだけの内容になった。
病院からは「症状が出て視野が狭まっているうちに判断すると後から悔やむ結果になってしまうこともあるから、重大なことは症状がおさまってから判断した方がいい」と言われていて、それに従う気でいたから、突然問題を突きつけられたことに戸惑いはあった。が、戻りたくなったときはまた戻ればいいから後悔することもないと思ったし、今「まだやめると決めたくない」と言ってしまったらあとからやめたいと言い出しづらくなると思ったから、退職の方向に話が進んでもかまわないと思った。
でも、やめる気満々だったようには見せたくなくて、選択肢を肯定するに留めた。
社長からはその日のうちに返信が来て、他にも気遣いの言葉など色々とあったが「新しい一年をすっきり迎えられるように年末を区切りにするのもありかもね」というようなことが書かれていた。
それを要約役の恋人から聞いて、あまりの急展開にちょっと笑ってしまったのを覚えている。
が、返信するとなると、決めたはずの方針に改めて悩んだ。本当にやめていいのか、収入を失う、母にはなんと言えばいいのか。
頭がぐちゃぐちゃだったけれど、友達との約束のために午後はなんとか出かけた。新宿でゴッホの絵を見たあとLUMINEで買い物をして餃子を食べて、帰る雰囲気で駅に着いたときはまだ21時頃だった。その日は恋人も忘年会に出かけていて、その時間に帰ったら一人で待つことになる。考えないといけなくなる。それに焦って、友達に「いっしょに来る?」と言ったら「行く!」と言ってくれて、二人で帰った。旅行前のちらかった部屋を数分掃除したあと彼女を招き入れた。お酒を飲んで、ポップコーンを食べて、彼女に絵を描いてもらって、私は旅行前の仕事として残っていた年賀状を書いて、愉しく過ごした。そのうちに恋人も帰ってきて、三人で少し話してから、彼女は終電の一本前の電車で帰った。
そのあとも考えることから逃げて、旅行の準備に手を動かしていた。眠りを待って目を閉じたときに苦悩が襲ってくるのが不安で、まぶたが重くなるまでずっと荷造りをしていた。

十二月二十一日_出国当日

フライトは夕方だったがなんだかんだ朝から忙しなく、落ち着いて返信を送れたのは成田エクスプレスに乗り込んで空港が近づいてきてからだった。
「会社に不都合がなければ年内でかまわない、ただし東京を離れるので備品返却にはまだ行けないが」という内容になった。
恋人に送信してもらったあと少し泣いた。
けれどそれからは、出国しおおせることに集中したので考えずに済んだ。

十二月二十二日_パリ初日

フライト中はLINEを受信できなかったので、次にそれに向き合うことになったのはシャルル・ド・ゴールに降りてパリへ向かう列車の中だった。
社長から「負担がかからないように手続きするからね」という返信が来ており、人事を兼ねている上司から手続きについてのメールが届いていた。
ヨーロッパの冬の木が過ぎていく曇天の車窓を横目にメールを読み、よく分からないところもあったので恋人に渡して噛み砕いてもらった。
退職日を具体的に何日にするかという相談が来ていたので、保険証を使った日付を伝える返信をした。
車窓に頬杖をついて速い鼓動を聞きながら、乗客たちの甘い香水をかぎながら、人生ってこんなこともあるんだな、などと考えていた。
すぐにパリに着いた。

十二月二十五日_パリ四日目

週が明けて月曜日、ホテルで起きると上司から退職日が決まったと連絡が来ていた。
土日の間に作ろうと思いながら作れていなかった退職届を、恋人のシャワーを聞きながら作ってメールで送った。クリスマスの朝だった。
変な気分だった。クリスマスのパリで退職届を書くなんて。パリに来てやめたくなったわけでもないのに。

十二月二十五日のパリは何もかもが休みになって静まりかえると聞いていたけれど、それほどではなかった。セーヌ川の水上バスに乗って、エッフェル塔へ行き、モンパルナスタワーの展望台へ上り、ポンピドゥセンターでルオーを観て、ポンピドゥの目の前の猫のいるカフェで夕食をとった。

実はポンピドゥセンターは仕事でやりとりのあった組織で、そのロゴは二〇二三年の年明けから八月にかけて数えきれないほど私の目に入ってきた。が、それがポンピドゥのファサードそのものをデザインしたものだということは、この日まで知らずにいた。

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