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旅香記Ⅸ_FCO→PVG

疲れで無気力になっていたが、機上から見えた月が綺麗で気を持ち直せたので、筆を執る。

今はローマの時間で二十三時。フィウミチーノ空港を二十時半に離陸してから、二時間半が経っている。一時間ほど寝て、そのあと機内食を食べた。Yは私の腿に頭をのせて、また眠りに落ちている。

ローマを発つときに、ショッキングな出来事があった。
空港へのシャトルバスに乗るために中心駅の前を歩いていたら、泥棒の一味にソースのような液体をかけられたのだ。
スーツケースを引いて歩いていたら、ふいに背中に水鉄砲が当たったように細い水流を感じて、後ろを見ると男たちの気配がした。背中をさわると指に液体がふれ、尿でもかけられたのかと指先を見ると茶色い液が付いていて、何かスパイスのような匂いがする。
少し前を歩くYを見ると、コートの背中に茶色い液体がかけられていて、咄嗟にYの名を鋭く呼んだ。Yが立ち止まって振り向くと、そこに男たちがわらわらと寄っていって、実際何と言っていたかは覚えていないが、「きれいにしてあげる」というようなことを言いながら手のひらを差し出したりYの体を手でまさぐったりし始めた。私は恐ろしくなりながら、あたふたするYに「無視して。この人たちがコートに液体をかけた。綺麗にすると言ってお金を要求しようとしている」というようなことを早口の日本語で伝えて、男たちにはNo No No, Grazieと私にしては強い語気で告げた。彼らはすぐに逃げていった。
一瞬の出来事だった。
後からして思うと、彼らはコートを汚すことで、私たちが動揺して荷物から手を離した隙にそれを盗んだり、きれいにしてあげると言ってコートを脱がせて財布や貴重品を奪おうとしていたのだろう。『地球の歩き方』には載っていなかった手口だ。あのとき自分の背中の状態をかえりみずにすぐにYに声をかけて、お互い荷物から手を離さないまま男たちを追い払えたのは、完璧な対応だったと思う。最初の考えが「尿を引っかけられたかも」だったので、それよりは悪くないと冷静になれたのかもしれない。
背中がひどいことになっているのだろうと思いながら、とにかくこの場所を離れたくてバスに向かった。服が汚れているとバスに乗せてもらえないかもしれないと思い、列に並ぶ前に二人でコートを脱いだ。
あまり人に対して怒ることのない私だが、今日ばかりは一、二時間ほど憤りに燃えた。あまりに理不尽だ。卑怯だ。道を歩いているだけでどうしてこんなことをされなければならないのか。母から受け継いで着ているローラアシュレイのウールのロングコートとお気に入りの編み上げブーツにケイジャンソースのようなスパイスの匂いの液体がべったりと付いて、空港でウェットティッシュを買って拭いても完全には落ちなかった。
しかし、六時間経って飛行機に乗り込むと、理不尽だったけれど実害はなかったと思えてきた。どうせコートは旅行中雨に濡れたからクリーニングに出そうと思っていたし、靴も旅行中に傷ついたからメンテナンスするか買い替えなければいけなかった。物を盗まれてはいないから、損という損はしていない。
ただ、人を困らせて騙して金をむしろうとするあの男たちの心根は気に入らない。
彼らはなぜ私たちを標的にしたのか。空港に行こうとしている旅行者なら時間を惜しんで警察に訴えたりしないからか。フォーマルに近い格好をした旅行客だから金を持っていると思われたのか。日本人は騙しやすいと思われたのか。
彼らはなぜこんなことをしているのか。生活のためか。なぜ働いて稼がないのか。こういう犯罪は、社会がどうなればなくなるのか。あの男たちの悪意や怠惰やらに帰することのできない要素は、どれだけあり、何であるのか。
こんな暴力に晒されたことがなくて、当惑している。せっかくの旅行の終わりにこんな目に遭って、あまりに後味が悪い。ローマで作った思い出まで台無しになりそうだ。でも、それはもっと損だ。

朝の機内食が来るまでの六時間ほど、何度か目覚めながら眠った。
途中、ちょうど朝焼けのような色が見えるときに目覚めて、Yも起こしていっしょに眺めた。西から東への航路なので、夜から朝へ飛んでいく。後方の空は濃紺、前方の空は明るい青で、その地平線のあたりが薄いオレンジ色に染まっていた。しばらく飛ぶと、見える限り同じ青になってオレンジも消えた。
そのあともう一度眠ったあとで機内食が来て、おなかはすいていなかったけれどニョッキ定食を食べた。ブロッコリー・にんじん・牛肉が添えてあるトマトソースのニョッキ、マカロニとコーン・にんじん・グリンピースのサラダ、カットフルーツ、パイナップルジュース。マカロニのサラダは、味がしなくて残してしまった。夜の機内食でおいしかった温かい白パンをもう一度もらおうかとも思ったが、満腹だったのでやめておいた。Yは食事をもらわずにコカコーラだけ飲んでいた。

旅が終わろうとしている。
最後の難関は、上海での二時間しかないトランジットだ。
乗り遅れると次の便を丸一日待たなければいけないし、成田への父の迎えがなくなってしまうかもしれないから、どうにか間に合いたい。
最後にあんな事件に遭ったせいもあるのか、帰国は嬉しい未来としてある。

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