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週末はなるべくゆっくり時間を使って、1週間の振り返りをするようにしている。

実際にやることといえば、最低でも次のことくらいは必ずやっている。

・その週の日記とかメモの読み返し
・その週の仕事の記録の振り返り
・その週にたまって未処理の書類の整理
・次の週のスケジュールの確認
・次の週のタスクの確認

月替わりの最初の週末とかは、ここに月単位の振り返りとか計画が入ってくる。

気づいたら、これを15年以上続けている。

ここまで長く続けていると、これをできない週が出てきたり、下手して続いたりすると、なんとなく調子が悪くなってくる。露骨に何か問題が起きるというわけではないけど、確実にペースというかリズムが悪くなる。

だから、なんとかして最低でも「日記とかメモの読み返し」と「次の週のタスク確認」くらいはやろうとしている。

noteを書き始めて「日記とかメモの読み返し」の中に自分のnoteの読み返しも入るかなと思ったけど、実はそこまできちんと読み返していない。

読み返すのは「自分のために書いたもの」の方がしっくりくる。

5年くらい前に読んだ詩人 荒川洋治氏の『日記をつける』の中にこんな一節があった(手元に本がなくメモしかないのでページ数は不明)。

「書く」は、書いた文字がそのときだけそこにあればいいという、どちらかというとそういうものであるのに対し、「つける」は、しるしをつける、しみをつける、がそうであるように、あとあとまで残す感じがある。いつまでも残るように記すこと。これが「つける」なのだと思う。だから日記は「つける」のだ。
(出所:『日記をつける』)

自分が週末にやっているのは、この「つける」ことをとおして得た感覚を反芻するようなものかもしれない。

もちろん、日々noteを書いているときに「そのときだけそこにあればいい」と思っているわけではない。ただ、どちらかといえば、自分以外の人のことを意識して書いている。

一方、日記やメモというのは、自分のためにだけ書いている。書いたもの、そのものを残すという感じというよりは、書くことをとおして、自分の考えたこと、感じたことを残していくような感覚だ。

これは川崎氏の言う「つける」という感覚そのもの。

人前で話すことも少なくない仕事で、ソーシャルメディアなども自分以外の人のことを(少なからず)意識して使っていると、バランスを取るように、この「つける」という行為を欲している感覚が出てくる。

こういういろんなものが速いペースで動いていき、自分という存在もオープンになっていくような時代だからこそ、「つける」という行為を大切にすることも必要だ。

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Photo by Nicolas Thomas on Unsplash

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