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「没問題」に振り回されないために

中国で仕事をしていると、その習慣の違いに驚かされたり、振り回されることがよくあります。

そのうち、業界・業種・場所を問わず多くの日本人を悩ませるのが「没問題」(méi wèntí)でしょう。表面的には「問題ない」という意味ですが、ある人が「没問題」と言った後に問題が続出して「どこが没問題やねん」という思いを持った人、たくさんいますよね?

有没有問題?(yǒuméiyǒu wèntí?,問題ないですか)」という問いに対して「没問題!」と元気よく答えていたのに、あるとき突然「あれこれのせいでできません」となって大慌てする、というような話が今日もどこかで生まれていることかと思います。

今日は、この「没問題」に振り回されないための心構えを書いてみたいと思います。

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「没問題」に振り回されないための一番の方法は、「没問題という答え、および有没有問題? という問いかけ自体に意味がないことを知る」ということだと思っています。身も蓋もありませんが、究極的にはこれしかない、というのが僕の現状の結論です。

まず、没問題という言葉の意味それ自体について。中国の人と日本の人では、ある事柄に対して「問題がない」という認識を持ち、そう答える閾値がそもそも違うのです。日本の人は「問題ありません」と答えるまでにある程度の葛藤を経る人が多いかと思いますが、中国の人はそうではありません。

たとえばあるミッションが成功するかどうかに関して、日本人は80%でようやく「何事もなければ問題ないです」と保険付きで答えるのに対し、中国の人は50%くらいでもう「没問題」と答えてしまう、という体感です。これはもう、いいとか悪いとかの次元ではなく「そういうもの」です。日本人の立場から見ると違和感はありますが、それを言っても何も始まりません。

それは先に予想される問題への対処法や、前もって問題を潰しておくことに感じる重要度の差など様々な角度で語ることができますが、ともかくある事柄を「没問題」と捉えるかどうかについては大きな隔たりがあるということは前提として持っておいた方がいいと思います。

「没問題」という言葉を「問題ない」ではなく、「この人は問題ないと言っている」くらいの意味で捉えられるように、訓練を積みましょう。

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さらに、「有没有問題?」という問いかけの無意味さについて。

日本人の多くは「問題ないか?」という問いかけをするにあたり、本当に問題がないかどうか確認する意味ももちろんありますが、それをある種の「言質」のつもりで聞いていることが多いように思います。ある人が「問題ない」と言った事実をもって、責任がそちらに移行する、という考え方とでもいいましょうか。

この「言質」と言う考え方、中国では全く役に立たないと言っていいです。これもいい悪いではなく、「口に出した言葉への責任感」や「ある一連の工程に対して、どこまで責任を持つか」に関する考え方が全く違うのです。

たとえば、ある製品の納期について担当者に問題ないかを聞き、「没問題」という答えが返ってきたとしましょう。そして納期通りに製品ができなかったとき、「お前、無問題って言ってたじゃないか!」というように担当者を詰めても意味はありません。多くの場合「いやこれこれこうで、僕は大丈夫だと思ったんです」「サプライヤーが云々かんぬんで僕は悪くないです、没办法です」という、「言い訳」にしか聞こえないようなことをつらつらと述べられるだけです。そうなると不毛な罵声が響くだけで、問題の解決に向けた建設的な議論など到底できないでしょう。

こう書くと非難がましいですが、日本的な「言質」の考え方も、そこにある種の傲慢や慢心があるとも言えるかもしれません。ある人が「没問題」と言ったからといって、本来それは未来の何かを保証するわけではありません。先述したように日本人どうしだと「問題ない」という言葉の意味が重く、その保証する範囲が広いということに慣れきってしまっています。しかし、それが他国でも通用するわけではないという意識は持っておくべきです。

ちなみに中国人どうしのやり取りを見ていると、「有没有問題」という問いかけ自体をあまりしていないように見えます。この手の言質取りには、意味がないことを体感的に知っているのでしょう。問題が起きるときは起きるし、起きても全部が自分のせいじゃないし、という腹の括りかたには、むしろ見習うべきところも大いにあると思います。

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中国に関わるお仕事をしている皆様、今日もご苦労様です。違いに振り回されることも多いかと思いますが、頑張っていきましょう。

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