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「外国語ペラペラ」という表現への違和感

「外国語がペラペラ」という言い回しは、昔から存在しています。外国語が流暢に話せるとか、ネイティブかのように違和感なく話すことができる状態を指しているという解釈が一般的です。weblio辞書内の『実用日本語表現辞典』の中にも、「外国語が達者なさま」という語釈が載っています。

この「ペラペラ」という表現、あまり好きではありません。響きがダサくて気に入らないという極めて個人的な好き嫌いの問題は脇に置くとして、この「ペラペラ」という表現・概念が日本人の外国語学習にとってある種の害悪になっているのではないかと考えているからです。

この記事ではそんな「ペラペラ」に対する違和感を述べていきます。多少の偏見込みかもしれませんが、何かの参考にしていただければ幸いです。

「話す」以外の技能が軽視されがち

「ペラペラ」という言葉自体は、話をしていてよく舌が回るとか、途切れなく言葉が出てくるなど、「話す」ことの能力が高いことを指す擬態語(擬音語?)だと思われます。

しかし、語学には少なくとも4技能(話す、聞く、書く、読む)があり、「話す」だけがどれだけできるようになっても、それをもって外国語ができるようになったとは言えません。百歩譲って会話能力だけに話を絞ったとしても、最低限「聞く」ができないと、当然ながら会話は成立しません。

中国語で言えば「酒店在哪里?」(ホテルはどこですか?)といくら綺麗な発音で淀みなく言えたとしても、相手が「先直走,看到便利店再左拐就到」(まっすぐ行って、コンビニが見えたら左に曲がれば着きますよ)と言っているのが理解できなければ、永遠にホテルにはたどり着けないということになります。

語学能力を評価するための語彙が「ペラペラ」以外に乏しいことは、「流暢に話す」ことに価値の重きが置かれすぎていて、他の能力が軽視されがちなこととして現れているように思います。

実際、語学教育関係の広告などでも「自然な話し方が身に付く」というようなものが目につくことが多いです。多くの人が「自然に話せるようになりたい≒ペラペラになりたい」と望んでいることを見越してのコピーなのでしょうが、「自然に話せても、聞き取れなければどうしようもないんだけどな」と思いながら見ています。

語学は常に様々な能力から多面的に考えた方が理解がしやすく、特に語学学習にあたっては自分が今どの能力を高めようとしているのか意識しながら勉強することがとても大事です。漠然とした「ペラペラ」≒「流暢に話す」ことだけが目標になってしまうのは、個人的にはなんだかなぁと思っています。

語学力を「ペラペラか否か」で捉えてしまう

「流暢に話すことに価値の重きを置きすぎる」と書きましたが、これによって起きている問題がもう一つあると考えます。語学力をゼロかイチで捉えてしまう現象です。

語学を学んだことがある人なら、こういった場面に遭遇したことがあるのではないでしょうか。

「〇〇語はどれくらい勉強したの?」

「〇年くらいです (もしくは 〇〇(国名)に〇年くらい留学してました、など)」

へーすごーい。じゃあ〇〇語ペラペラなんだね!

「あっいや、それほどのものではないんですけど…」

えーなに、じゃあペラペラじゃないの?

このように、「ペラペラか、そうでないか」という極端な二元論で語学能力を捉えようとする人はたくさんいます。語学を体系的に学んだことのある人とない人の差と言ってもいいかもしれません。自分も偉そうに言えたものではなく、思い前せば中国語を学ぶ前は似たような認識だったように思います。

実際には語学力にも様々なレベルがあります。「話す」能力だけをとってみても、文法や発音に間違いを含みながらもなんとか相手に言いたいことが伝わるレベルから、明らかに母語ではないとわかるが大きな違和感はなく話せるレベル、慣用句や俗語を駆使して豊かな表現ができるレベルなどが存在します。その境目もグラデーション的になっていて、はっきりと分けられるものではありません。

考えてみれば当たり前のことで、「ギターが弾ける」人にもコードを押さえるのが精一杯の人から超絶速弾き奏法ができる人まで様々なレベルが存在するでしょうし、「サッカーを〇年やっていた」という人が全員プロで通用する技術を持っているわけではありません。しかし語学というジャンルになると「ペラペラ」という謎の基準が採用され、「ペラペラか否か」という捉え方になる場合が多いように思います。

このことは「ペラペラでなければ、〇〇語をできると言ってはいけない」という意識の内面化や過度なプレッシャーにもつながるとも思っており、たいへん不健全だと考えます。こういった意識は、語学の上達においては邪魔にしかなりません。

「ペラペラ」であろうとなかろうと、自ら手を挙げて「話せます」と宣言してしまい、仕事などで外国語を使うチャンスを手にするほうが結果的には効率が良いです。しかしこの「ペラペラでなければいけない」というような自意識のせいで思い切った行動ができなくなっている人がたくさんいるとすれば、非常にもったいないことだと思います。

「ペラペラ」以外の形容が乏しいことが問題

ここまで書いてきて気づくのですが、これらは「ペラペラ」という言葉自体の問題というよりも、「ペラペラ」のほかに語学の能力を形容・表現する語彙が乏しく、「ペラペラ」以外の状態をイメージしにくくなっていることが問題と考えられます。

「日常会話レベル」や「ビジネスレベル」のような使用経験による目安や、TOEIC〇点や英検〇級、HSK〇級のような資格試験における成績などの基準も存在しますが、「ペラペラ」という表現が広く人口に膾炙しすぎているせいか、「ペラペラ」ほど普及しているとは言い難いですし、それらがどの程度の実力なのかということもすぐにはイメージがしにくいでしょう。

日本は良くも悪くも日本語だけで生活や仕事が完結する環境の人がほとんどであり、多数の言語を操ることに対する想像力が働きにくい国でもあります。しかし何度か書いているのですが、語学を習得して生活環境をよくする可能性がある人は、基本的に真面目で勤勉、基礎能力も高い日本人にこそ多いと思っています。

「ペラペラ」という漠然としたイメージに惑わされずに、自分の基準で語学を勉強・修得し、世界で勝負できる日本人が増えていくといいな、と思います。

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