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ポケットにしまっておける自分を探して

週末なので少し観念的というか、ぼんやりした話を書きます。

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「自分探し」という言葉が使われるようになって久しいです。

この言葉が生まれたときの空気感がどうだったのかは分かりませんが、現在においてはどちらかというと否定的な文脈で使われることの方が多いのではないかと思います。

「自分探し(笑)」とか、「探して見つかるような自分なんて、大したものじゃない」とか、「意識が高いだけで、中身のないやつがやること」とか、そういう文脈です。

あるいはそれも真実かもしれません。高い能力があったり、いま置かれている環境に徹底的に向き合って問題を解決することができる人からすれば、たしかに「自分探し」はある種の逃げというか、弱い自分のごまかしのようにも見えるでしょう。そんなものに成果はついてこないよ、というのも、ひとつの理屈ではあります。

でも、「自分探し」ってそんなに悪いことじゃないというか、ちょっとその定義を変えてみたら、より良く人生を生きられるようにできるものなんじゃないかと思うのです。

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人々が「自分探し」というときには、「今までの自分をぜんぶ捨てて、新しい自分に会いに行く」というような、「全とっかえ」のようなニュアンスが漂います。そのほうがストーリーとしては美しいし、わかりやすいからでしょうか。

でも、自分って、本当にひとつしか持ってはいけないものなのでしょうか。いままでの自分を大事にしたり、部分的には肯定しながら、新しい自分を発見することって、本当にできないのでしょうか。

いまある環境における自分になんらかの生きづらさを感じていたとして、それをすべて捨てなくてもいい。どこか新しいところに出かけていって、そこで新しい自分を見つけて、もとの自分と共存させていく。そんな道もあるんじゃないでしょうか。

普段の自分にふと疲れた時に、いっときだけ違う世界に行くために、違う自分になる。そのどちらが本当の自分なのかなんて、決めなくてもいい。ただより良く生きるために、あるいはその自分の良さと辛さをよりよく理解するための、相対的な自分をいくつか持っていてもいい。

そんなことを思うのです。

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僕自身が中国に来たのは、それこそ世間でよく言われているような「自分探し」のため、つまりはイケてない自分や周りの環境を変えたかったという面が多分にあります。

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