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なぜ中国に関することを言語化するのか

毎日更新を初めてはや2週間(それは「はや」なのか)。書けば書くほど言葉を紡ぐスピードや表現が成長していることが実感できており、ますますモチベーションが上がっております。お読みいただいている全ての皆様に感謝です。

noteのマイページにも書いていることですが、毎日更新するにあたりコンセプトを「一日ひとつ、中国にまつわることを言語化する」ことと設定しました。今日はなぜこのコンセプトを選んだのか、自分自身への確認もこめて述べます。

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中国にまつわることを言語化する目的は、「中国や中国人の実像を捉え、言葉にすることでより深く知る」ということです。

僕は中国に住み始めて5年以上が経ちますが、まだ中国という国についてさっぱりわかっていないという自覚を特に最近持つようになりました。

個人的に抱いている印象というのはもちろんあるけど、それはきちんと事実に基づいているのか。中国人に対するステレオタイプは山ほどあるけど、それは世代や地域を超えても普遍的に言えることなのか。実は自分も、ステレオタイプの中に「中国」を押し込めて何かをわかった気になっているだけではないのか。

そして何よりも、中国に関することで、自分が感じているけど言葉になっていないことがたくさんあるのではないか。それを言葉にできたら、ステレオタイプを超えた理解ができるんじゃないか。そういう想いがあります。

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「中国をより深く知る」と述べましたが、それは中国を好きになろうとする過程のことを指すのではありません。理解をすることと、印象が良くなることは必ずしも同じではありません。ただそれでも、浅薄な理解のまま中国を論じるよりはいいのではないかと思っています。

よく考えもせず恥ずかしげもなく、「日中友好の架け橋になりたい」と紋切り型の表現をもって何か立派なことを言っているような気分に浸る人間にはなりたくありません(本当に「架け橋になりたい」と志を持ち、具体的な行動をする人を貶めるものではありません。嫌いなのは「これ言っときゃ良いだろ」と思考停止している人間です)。真剣に向き合うことから逃げ、良いところばかりをなんとなく上辺で撫で回すようなことはしたくありません。

相入れない結末があるとしても、自分の中の中国を言葉にし続けよう。「架け橋になりたい」というフワフワした目的のためではなく、自分にとっての中国を形に起こしてみよう。それを続けていれば、自分だけの言葉で中国を表現できるようになるかもしれない。それを書き残していれば、いつか中国に関わる誰かのヒントになるかもしれない。

そんなことを考えながら、書き続けたいと思います。

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