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中国の大学入試は変わるのか。その可能性について考えてみる

昨日のnoteで、改革を経たあとの中国の教育の現状について、周囲の中国人に聞いたことをもとに書きました。

聞いてみた内容によると、やはり教育を取り巻く周辺環境が変わったとしても、出口としての大学受験が非常に重要である限り親たちの不安は消えず、子どもの負担もあまり変わっていなさそう、ということがわかりました。

ではここで、そのように親を不安に陥れ、子どもに負担を強いている大学入試、中国語でいう「高考gao kao」が今後システム的に見直される可能性はあるのか? という問いが浮かんできます。

今日のnoteでは、その問いについて考えてみたいと思います。

おさらい:中国の受験システム

まず、中国の大学入試の特徴について、おさらいしておきます。

中国では、基本的にすべての受験生が同じ内容の試験を受けることになります(地域や専攻ごとに試験内容・条件が異なる場合もありますが、ややこしいので単純化します)。日本でいう共通一次試験(旧センター試験)だけですべてが決まる、というようにイメージしてください。

そして、その試験でとった点数によって、それぞれの学生は自分のレベルに合った大学に出願します。当然ながら、各大学は希望のあった学生を点数の高い順に取っていくことになります。つまりは共通試験の点数が、大学を選ぶ際の選択肢そのものなわけです。

そして、中国においてどの大学に行けるかというのはそのままその後の人生の選択肢に直結しています。言わずもがな、難関である名門大学に入った方が、その後の人生は有利になると人々は考えます。

このように、膨大な(毎年数百万から1,000万人程度)が同じ、一発勝負の試験で一斉にふるいにかけられ、それによってどの大学に行けるのかが決まり、そしてその後の人生の幸福までもがかなりの部分で確定してしまう(少なくとも受験者の側からはそう見えている)というのが、中国の大学受験のシステムです。

だからこそ、中国の子どもたち(というよりむしろ親)は基本的に一度きりの大学受験にすべてを賭け、早いうちからこれでもかと教育を詰め込み、数少ない名門大学の席を狙って勝負しようとするわけです(いわゆる浪人もできなくもないようですが、習慣的にあまり認められていないようです)。

結果として、厳しすぎる競争とそれにともなうプレッシャーや膨大な勉強量に多くの学生たち(と親)が疲弊してしまう、という構造があります。

先般の教育改革を経ても、まだまだこの構造は保存されていそうだ、というのが昨日のnoteで書いたことです。

「中国の国情」に合致したシステム

なぜ中国においてかように厳しい受験制度が受け入れられ、またそれが支持されてきたかというと、これこそが中国の社会的な要求に合致したものであるから、ということがその理由として大きいと思います。

中国では社会のリソース配分として、ハチャメチャに厳しい競争を勝ち抜いた人にリソースを一点賭け的に託すという方法が伝統的に好まれてきました。科挙制度なんかはその典型です。

それはデカくて人が多すぎる中国において、最適なリソース配分の方法だと多くの人に信じられています。極小の狭き門をくぐり抜けた者こそが、社会を託すに値する優秀な人間であり、その力を持ったものを取り立てるのは当然のこと、という考えが根強くあります。

さらには、この方法こそが「平等」であるという信念も、社会において非常に強いものです。多様なひとびとがみんな同じ試験に参加し、同じ基準(点数)でのみシステマティックに大学への合否が決まるというのは、たしかにこれ以上ない「平等」だという言い方もできます(日本でも、同様の意見はありますよね)。

そんなこんなで、高考というシステムは「中国の国情に合致したもの」として多くの人に賛成されたものである、という現状があります。

そういう意味で、先般の改革などによって枝葉の問題に手はつけられつつも、「少数の超優秀者を絞り込むためのフィルター」としての高考という仕組みが抜本的に見直される可能性は、いまのところ非常に低いと考えられます。

見直されることがあるとしたら

しかし、高考が見直される可能性はまったくゼロではない、と個人的に考えてもいます。以下にその理由を述べていきます。

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