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教会の罪

「すると,すべての人はイエスを見捨てて逃げた」(マタイ伝14-50)
 

正文批評


外的証拠


 この文章には異読があります。

「そのとき,弟子たちはイエスを見捨てて,すべての人は逃げた」

では,どちらの読みが正しいのでしょうか?まず,写本の比較をしてみましょう。
 「すべての人はイエスを見捨てた」を支持するのは,シナイ写本やバチカン写本などアレクサンドリア系の写本のみです。一方で,「弟子たちはイエスを見捨てた」を支持するのは,カイサリア・アンティオケア・アフリカ・アレクサンドリア・西方など,様々な地域に分布する写本です。影響の広大さから判断すれば,後者の読みを原文とすべきでしょう。つまり,写本という物理的比較によれば,「弟子たちはイエスを見捨てた」が正しい文章ということになります。

内的証拠


 次に,写字生の心理分析を通して,原文の確定を試みてみましょう。教会の写字生は,写本を書き換える傾向があります。つまり,聖書を書き写す際,言葉を挿入・置き換え・削除するのです。理由はいくつかあります。
 彼らにとって,キリストや使徒は神聖不可侵でなければなりません。それ故,イエスや使徒の印象を低めるような文言を削除するのです。
 また,彼らにとって,イエス・キリストは愛の人でなければなりません。故に,イエスの厳しい言葉を優しい言葉に変換する傾向があります。
 さらに,彼らキリスト信徒にとって,四福音書に矛盾があってはなりません。なぜなら,イエスの記録に矛盾があれば,聖書の神聖性が疑問に付されるからです。故に,言葉を削除したり書き入れたりして,福音書を調和させようとします。
 では,この文章の場合はどうでしょうか?写字生の傾向性から判断すれば,「弟子たちがイエスを見捨てた」から「すべての人がイエスを見捨てた」に書き換えることはあっても,その逆はあり得ないと考えられます。なぜなら,十二使徒を聖人化したい写字生にとって,彼らがイエスを見捨てるなどあってはならないからです。あってはならないから,「弟子たち」を削って「すべての人」を主語にし,罪を群衆に押しつけたのです。
 以上により,「弟子たちはイエスを見捨てた」を原文と判断すべきでしょう。

キリスト教会の罪


 キリスト教会は,多くの間違いを犯してきました。最も大きな間違いは,先ほども申し上げましたように,十二使徒を聖人化した罪です。なぜなら,崇めるべきはイエス・キリスト御一人のみであって,その弟子ではありません。十二使徒を崇拝する傾向は,一種の偉人崇拝でありまして,現代の偶像崇拝です。
 私たちは,礼拝の仕方はどうであれ,正しい認識を持つべきです。つまり,十二使徒は,神の側近き聖人ではなく,イエスを誤解し,イエスから離れ,イエスを裏切り,イエスを見殺しにした人々です。ペテロもヤコブもヨハネもパウロも,我々と同じ罪深き人間でありまして,決して完全無欠の聖人ではないのです。
 

参考書籍、及び、参考動画です。
ご興味のある方はどうぞ。


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