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宗教信者二世問題から宗教教育について

はじめに


 昨今,統一教会の二世信者問題が話題になっております。彼ら・彼女らは,両親により一種の洗脳状態にされていたわけで,「子どもの人格を棄損した」という意味で忌々しき事件であります。「信教の自由」という観点があるにせよ,社会的正義に背いたという意味で,何らかの法的措置を検討する必要があるでしょう。
 私は,今回の事件を通して,「宗教教育の正当性」ということを考えざるを得ませんでした。親は子に,宗教的教義を教えるべきでしょうか?子どもの健全な成長のために,果たして特定の宗教教義は必要なのでしょうか?今回は,イエス・キリストの福音を通して,宗教教育について考えてみたいと思います。自分の経験ではなく(ほとんどの場合,人間は自分の受けた教育を絶対視するものです),福音の精神に鑑みる時,子どもと宗教の関係はどうあるべきか?これが,今回の主題であります。

宗教教育の原則


①  教えない


 神や来世などの宗教的教義は,子どもに教えるべきではありません。なぜなら,イエスが教え給わなかったからです。イエスは,子どもを祝福したのであって,決して説教し給いませんでした。

「子どもたちを私の所に来させなさい。・・・そして,イエスは子どもたちを抱き,彼らの上に手を置いて祝福された」(マルコ伝10-13~16)

 人生経験のない子どもが,果たして,超越的観念を理解することができるでしょうか?例えば,子どもに神を教えたとしましょう。「神さまはこの世で一番偉い存在なんだよ」と。すると,アイドルや有名人を尊敬する子どもは,神さまを芸能人の一種と勘違いするでしょう。あるいは,子どもに愛を教えたとしましょう。「愛はこの世で一番大切なものなんだよ」と。すると,玩具を大切にする子どもは,愛を玩具の一種と錯覚するでしょう。このように,人格的に未成熟な子どもは,高尚な存在を自分のレベルにまで引き下げてしまうのです。
 また,宗教的教義の詰め込みは,かえって子どもを神から離れさせる原因となります。私が出会った人々の中で,宗教教育を受けた人間ほど不敬でした。多分,“口では神を語りながら,生き方は神に背く親”を見て,無意識的に神を呪っているのではないでしょうか?そして,歴史上の人物もまた,既成宗教に背いた人間の多くは,牧師や神学者の子どもでした。徹底した無神論者ニーチェの父は牧師でしたし,キリスト教的な神を否定したユングの父も牧師でした。いずれにせよ,宗教的教義を幼い子どもに教えることは,百害あって一利なしです。

②  背中で示す


 では,どうすれば子どもに,神を指し示すことができるでしょうか?それは,両親が神を信じて「真剣に」生きることです。言葉ではなく行動で,口ではなく生き方で,薄っぺらな説教ではなく苦悩の生涯によって,子どもに恵みの神を示すべきです。

「神の御心を行う人は誰でも,私の兄弟・姉妹,または母である」(マルコ伝3-31~35)

 神を信じるとは,神について考えることではありません。神的な祭儀を規則正しく行うことでもありません(アモス書5-21~24)。神を信じるとは,神の御心を実行すること,神と共に歩むことです(ミカ書6-8)。子どもに神を信じてもらいたいのなら,親がまず手本を示すべきです。神を信じると自称しながら,神の御心を実行しない。これを偽善と呼びます。そして,この偽善こそ,イエスが最も嫌い給うた罪です。いわゆる「パリサイ派の偽善」です。
 親の生き方を見て,子どもは神の臨在を感じるのであります。福音の闘士オリゲネスの親は,己自ら福音のために生き,殉教の死を遂げました。そういう親を持ったからこそ,孤独にも迫害にも拷問にもめげない不撓不屈のキリスト者が誕生したのです。

③  自己教育


 そもそも,宗教教育という言葉自体が矛盾しています。なぜなら,神を教えることは誰にもできないからであります。宇宙の中心であり主宰者である神,全存在を創造した神。もし神という言葉に拒否反応があるのならば,真理と言い換えてもいいでしょう。真理は,人から人に教えるものではありません。真理は,真理自体から,神御自身から授けられるべき代物であります。つまり,誰も教えられないという意味で,宗教教育は一種の自己教育であるべきです。イエスも福音書で忠告しています,真理は神御自身が開示される,と。

「父が私の名によって遣わされる聖霊が,あなた方にすべてを教えます」(ヨハネ伝14-26)

 では,聖霊は私たちに,何を教えてくれるのでしょうか?聖書の意味でしょうか?政治・経済のあり様でしょうか?物理学や生物学の真相でしょうか?いいえ,聖霊が教えるもの,それは「生きる目的」であります。聖霊は,私たちに「人生の目的」を示すことによって,私たちの意志を喚起し,私たちの自助努力を励まし給うのであります。私たち人間は,努力して努力して努力して,戦い戦い戦い抜いて,神の栄冠を勝ち取らねばなりません。「神を信じれば自動的に恵まれる」的な信仰は,現代人特有の怠惰が作り上げた偶像の一種でありまして,人間をそういった奴隷状態に放置する神は神ではありません。神は人間のすべてを求め給い,何よりも,人間の勇気を求め給います。イエス・キリストの父なる神が求めるもの,それは「勇猛果敢な生涯」でありまして,安逸を貪りながら憐憫を乞う「弱卒の生涯」ではございません。イエスが生前軍人の信仰を賞賛し,聖書の中に「勇気を出しなさい」という文言が300回も登場する所以です。

おわりに


 宗教教育は自己教育です。ならば,私たちは何を学びましょうか?聖書によって神を学び,心理学や文学によって人間を学び,政治学や経済学によって社会を学び,物理学や生物学によって自然を学びましょう。時には歴史を読むのもよし,時には芸術によって美を感じるのもよし,時には哲学によって理性的に物事を吟味するのもよし。学びは一生続きます。いや,永遠に続きます。なぜなら,私たちの霊魂は不死ですから。「神曲」の著者ダンテは,死ぬ間際にこう言いました。「私は死ぬ。そして,より高貴な生涯に入る」と。私たちもダンテに倣ってこう言いましょう。「私たちは死ぬ。そして,より高貴な学習に入る」と。
 学びは,学校教育で終わるものではありません。また,退職して終わるものでもありません。学びは,死ぬ間際まで,最期の瞬間まで,一生続けるべきです。多くの人々は言います,「老いは人生の休暇である」と。しかし,本当の信仰者は,そんな考えを抱きません。老いは,人生の夕暮れ時,回顧の時間ではありません。老いは,より一層学ぶべき時,人生で最も奮闘努力すべき時です。こういった人生観が,日本人のお気に召すにせよ召さないにせよ,福音の精神なのであります。

「兄弟たちよ。私は,自分はすでに(真理を)捕えたなどと考えてはいません。ただ,この一事に励んでいます。すなわち,後ろにあるものを忘れ,ひたむきに前に向かって進み,キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の栄冠を得るために,目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ書3-13・14)
 

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