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新しい神の誕生

古い神


一神論の形成


 古代世界においては,エジプト・ギリシャ・インド神話のように,多神論が主流でした。では,どうやって一神論が誕生したのでしょうか?どのような経緯で,キリスト教のような一神教は成立したのでしょうか?原因は二つあります。それは,ユダヤとギリシャの存在です。
 国家的危機の時代,ユダヤ民族から多くの預言者が輩出しました。アモス・イザヤ・エレミヤ・エゼキエルなどです。旧約の預言者により,ユダヤ民族の神観は徐々に変化し,神聖かつ崇高な一神論へと昇華されたのです。
 一方で,ギリシャの地においても,宗教思想は徐々に進化しました。タレス・パルメニデス・ソクラテス・プラトンなど多くの哲学者により,オリンポス十二神の多神論から「善のイデア(理念)」による一神論へと変貌したのです。そして,ユダヤの宗教とギリシャの哲学が融合し,世界宗教であるキリスト教が誕生したのです。

神の矛盾


 二千年間,キリスト教は人類を感化しました。しかし,キリスト教は中途半端な一神論です。なぜなら,他の宗教を排斥するからです。本当の一神論であれば,すべての宗教を包含する信仰でなければなりません。多に対する一は,本当の一ではありません。比較的な一です。つまり,他宗教を統合できないキリスト教は,厳密に言えば,排他的一神教なのです。
 私たち人類は,もっと先に進まねばなりません。多神論から一神論へ,一神論から唯一神論へ。すべての宗教を包容し,すべての宗教を司る本物の一神教に至らねばなりません。私は,このような宗教を「統合的一神教」と呼びます。統合的一神教とは,心理学者フランクルのいう唯一人類教(真の神の下に人類が一つになる意)であり,イスラム学者アンリ・コルバンのいう秘教的一神教(許された者に開示される宗教観)です。呼び名はどうであれ,我々人類の宗教的意識は,多性から一性へ,一性から全体性へ進まねばなりません。

先進的思想家


 統合的一神教を予示した三人の哲学者がいます。哲学とは,小難しい理屈ではありません。あるいは,有閑貴族の暇つぶしでもありません。哲学とは,自由な思考です。自由な体験です。宗教は呪縛であり,哲学は自由です。宗教は伝統であり,哲学は未来です。宗教は憶病であり,哲学は勇気です。哲学とは,勇気ある冒険です。既成宗教が救済力を失っている今,自由の申し子である哲学が新しい神を模索しなければなりません。

「あなたの御名が聖(きよ)まりますように」(イエス)

新しい神


インマヌエル・カント


 中世キリスト教神学の間違いは,人間の小さな頭脳によって,全能の神を把握しようとした知的傲慢さにありました。新しい神の登場を準備するには,人間知性の傲慢さを挫かねばなりません。人類の宗教的意識が進化するには,越権行為を平気で犯す知性に限界を示し,己の無知を自覚させなければなりません。こうした宗教的な基礎工事を為した者こそ,ドイツ観念論の創始者インマヌエル・カントでした。
 カントは「純粋理性批判」において,人間知性の限界を明らかにしました。私たち人間は,感性と悟性によって物事を認識します。

(注)悟性とは知性の別名です。知性という呼び方は,中世キリスト教神学の影響もあり,「神や来世をも認識できる」という印象を連想させるのです。そこで,中世的迷信を嫌った近代の哲学者は,知性でなく悟性という言い方を好みました。

 感性によって外界から思考の素材を得,悟性によって素材を観念へと高め,私たちは物事を認識します。感性はこの世の存在しか刺激を受け取れませんし,悟性は限界ある一定の思考的枠組みがあります。つまり,神や来世や天使など超越的存在は,感性によって印象を受け取ることはできず,悟性によって思考を巡らすこともできないのです。このようにして,カントは人間の認識力の限界を明らかにしました。
 ならば,カントは神をどう考えていたのでしょうか?神は,知性的に知ることはできません。道徳的に要請され,ただ信じることができるに過ぎない(「実践理性批判」)。一切の迷信を廃し,神を堅固な道徳的土台の上に据えたという意味で,カントは思想界のモーゼといえるでしょう。

フリードリヒ・シェリング


 カントは,新しい形而上学の土台を据えました。一方で,大きな間違いも犯しました。それは,「神を知ることはできない」と断定したことです。確かに,頭で認識することはできません。しかし,霊的直観によって感じることはできる。心の内奥における神秘的直観によって,神はご自身の本質を啓示されます。
 カントの思想を受け継ぎ,霊的直観によって神を感じ,その体験を哲学化した人間がいました。人類史上,最も偉大な哲学者であるシェリングです。彼は,神秘的直観能力によって神を体験し,その体験を言語化しました。いわゆる後期シェリング哲学です。しかし,あまりにも前衛的だったせいか,100年間誤解され無視され続けました。
 シェリングは言います。神という名のつく神は,本当の神ではない,と。つまり,我々人間が言語化できるような神,対象化できるような神は,本物の絶対者ではないのです。本当の神とは,神以前の神でなければなりません。シェリングは,神を超えた神,神になる前の神を「存在そのもの」と呼びました。
 存在とは,対象化できないという意味で一種の「無」です。しかし,この場合の無とは,空虚という意味ではありません。逆に,想像を絶した充溢です。存在とは,何ものにも執着せず,何ものも欲しない意志そのものです。

「わたしは,あるであろう者である」

つまり,何かになることも,何かにならないことも可能である原意志です。
 神そのものが絶対無ならば,創造が行われないことになります。しかし,神にはもう一つの側面があります。純粋な無であると同時に,絶対的な有の側面です。神は,この有に向いた側面を元型として,人間を創造しました。聖書の視点からすれば,無の側面を父,有の側面を子と称します。父があって子があり,子があって父がある。イエスが述べたように,「わたしと父は一体である」のです。なぜなら,子が生まれて初めて親は親になるように,子なき親はなく,親が存在して初めて子が誕生するように,親なき子はないからです。
 シェリングは言います。今までの哲学は,「世界から神を導出した消極的哲学であった」と。しかし,私が述べる哲学は,「精神から世界を説明する積極的哲学である」と。この場合の精神とは,神そのものの別称であり,心の内奥から顕現する神,神以前の神です。

※シェリングは,神そのものをプリウスと名づけました。なぜなら,priusとは原初という意味であり,すべての始まりを意味するからです。

 類まれな霊的直観能力と強健な理性的能力。宗教的天才シェリングは,これら二つの能力により,次々と超越的世界を明らかにしました。神の本性,人間の本質,死後の世界,魂の不死と遍歴,救済の問題,時間の秘密,終末論の意味など。シェリング哲学の詳しい説明は,後日投稿する予定です。

マルティン・ハイデガー


 シェリングの志を継ぎ,存在そのものを明らかにしようとした哲学者がいました。二十世紀最大の哲学者ハイデガーです。「存在と時間」で有名な方です。しかし,この書は,彼の主著ではありません。彼の主著は,晩年に執筆した「哲学への寄与」です。ハイデガーが生前,出版することを固く拒み,弟子たちに内容の口外を固く禁じた書。死後,すべての講義録や文書が公にされた後,最後に出版するよう遺言した書。ハイデガーが大衆にさらされることをひどく嫌った書です。
 では,「哲学への寄与」には,何が書かれているのでしょうか?それは,絶対者に直面した際の体験です。神以前の神,すなわち,神そのものは,決して言語化することはできません。物体や人間のように,知識化することはできない。なぜなら,人間が神を創ったのではなく,神が人間を創ったからです。
 神に接する時,人間は精神的に変容します。神の啓示は,人を変えることができる。そして人間は,変容した自分のあり様を描写し,告白することができる。人間はただ,変容した自己を告白することによってのみ,逆説的に神を記述できるのです。
 ハイデガーは言います。神に接する時,人間は三つの特徴を帯びる,と。第一に,彼は存在の守り人,最後の神の見張人になります。彼は,神の兵卒として,神のために戦うのです。第二に,彼は没落する勇気を持ちます。没落とは,十字架を負うことであり,神の正義のため,隣人のため,犠牲と孤独を甘受することです。第三に,彼は最も険しい道を選択するようになります。最も険しい道とは何か?それは,この世の栄華や成功を捨てて,己の使命に邁進することです。以上三点を総合すれば,最後の神,存在そのもの,生ける神に接した者は,イエス・キリストと同じように,神の国成就のため身命を賭します。

終末論の真意


 旧約の預言者は,神に召されて,各人の使命を果たしました。新約の使徒は,キリストに召されて,己の使命を果たしました。存在そのものである神(聖霊)に接した者も,預言者や使徒と同じように,独自の使命を果たすことになります。ちなみにハイデガーは,神に召された者を「将来的な人間」と呼びました。
 将来的な人間は,忘我的脱離の状態にあります。忘我的脱離とは,自我的な主体ではありません。私たちが一般的に考える私(エゴ)ではないのです。自我とは,自己中心的な主観であり,本来的自己の外にあることです。忘我的脱離とは,本来的自己の本質に目覚めることであり,内なる神性に覚醒することです(ハイデガーのいう性起)。人間が本来的自己(内なるキリスト)に目覚める時,時間は終焉し,別次元の空間が顕れ,古い自分が死んで新しい自分が誕生します。これが,聖書のいう終末です。
 
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれの仕業に報いるために,わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり,オメガである。最初であり,最後である。初めであり,終わりである」(黙示録22-12・13)
 

参考書籍です。


参考動画です。


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