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トルストイのメッセージ


ロシア文学


 ロシア文学の特徴は,驚愕すべき壮大な発想力にあります。もしかしたら,どこまでも広がる遠大な大地が,ロシア人の性格をそうさせたのかもしれません。プーシキンからトルストイに至るロシア文学の目標は,全人類の救済であり,最後の調和であり,終末論的世界です。
 ロシア文学は,ドストエフスキーとトルストイにおいて絶頂に達しました。ドストエフスキーの作品は,究極の悲劇であり,きわめてヘブライ的です(あたかも旧約のヨブ記を読む感覚)。一方で,トルストイの作品は,叙事詩的であり,きわめてギリシャ的です(あたかもホメロスのイーリアスを読む感覚)。トルストイ文学は,まるで悠々たる大河の流れのように,悲喜こもごもの人間の運命を運びながら,流れ流れて,果ては生の大海の中に消え去っていく。そんな雄大さがあります。

トルストイの思想


「この法則(非暴力主義)は人類の賢人たち,すなわちインド人や中国人やヘブライ人やギリシャ人やローマ人たちによって広められました。しかし,それを最もはっきりと言い表したのはキリストだと思います。キリストは明らかな言葉で,この法則があらゆる法則や預言者たちを包含している,と言っています。・・・キリストは人生の最高の法則である愛と,暴力の使用とは,両立しないものであることを知っていました。一度でも暴力が許されると,この法則がたちまち廃棄されることを,知っていました。キリスト教文明は表面いかに立派であろうとも,すべての誤解と矛盾との上に育ったものです」(死の1ヵ月前に書いたガンディーへの手紙)

キリスト教の偽善


 トルストイの根本思想は,キリストの教えです。キリストの教えである非暴力主義こそ,人類が従うべき法則であり,究極の生きる意味だと考えていました。逆の言い方をすれば,文豪トルストイは,暴力主義とその裏にある権力主義を最も忌み嫌いました。すなわちトルストイにとって,福音の精神に背き,この世の暴力と権力を是認するキリスト教教会こそ,悪の象徴だったのです。

「教会とは,自分たちだけが完全に真理を掌握していると勝手に主張する人々の集団である。これらの集団こそ,その後権力の庇護を受けて強大な組織に発展していった。そうした集団こそ,真のキリスト教の伝播に対する最大の障害であった。・・・いわゆる異端の中にのみ真の進歩が,言い換えれば真のキリスト教が存在したわけで,その異端が向上の歩みを止めて教会という形骸に閉じ籠ってしまった時,初めてキリスト教たることを止めたのである」(トルストイ「神の国は汝らの内にあり」)

 善とは,真理の前進です。悪とは,真理の停滞か,もしくは後退です。そういう意味において,真理を前進させる異端こそ善であり,既定の真理に固着する正統こそ悪なのです。イエスはユダヤ教の異端でした。パウロやオリゲネスは原始キリスト教会の異端でした。ルターやカルヴァンはカトリック教会の異端でした。内村鑑三はプロテスタント教会の異端でした。キリスト教だけではありません。釈迦はバラモン教の異端であり,ソクラテスはギリシャ宗教の異端であり,マホメットはアラビア宗教の異端でした。
 真理に向かって前進することを止める時,人は自らを正統化し始め,異質な人間を異端として蔑視します。そして,正統の名の下,暴力を正当化し,相手を抹殺しようとするのです。そう,教会がサヴォナローラやフスを火刑に処したように。トルストイの代表作「戦争と平和」におけるアンドレイ公爵の嘆きは,まさしくトルストイ自身の嘆きだったに違いありません。

「明日のように,互いに殺し合うために集まり,何万という人々を殺し,傷つけ,数が多いほど,それだけ功績も大きいと考えて,勝利を高らかに唱えるのだ。天上の神はこの光景をどのように見,この喚声をどのように聞くであろうか!」

キリストの教え


「私は一つの偉大な思想にたどり着いた。その思想の実現のためなら,自分の一生を捧げてもいいと思えるほどである。その思想とは,新しい宗教の創始である。キリストの宗教であるが,その独断的なところも神秘的なところも洗い清めたものである。・・・人々を宗教によって結びつけるために,明らかな意識をもって行動すること」(「日記」1855年3月5日)

 先程も申し上げましたように,求道者トルストイがたどり着いた最高の真理は,キリストの教えでした。キリストが説いた愛を文字通り実行すること。福音の教えを,神なきこの世の真っ只中で実行すること。これこそ,トルストイの真理だったのです。
 愛にも二種類あります。真の愛と偽りの愛です。偽りの愛とは,まず最初に自分を愛し,自分のために家族を愛し,自分と家族のために国家を愛し,自国のために人類を愛します。しかし真の愛は,まず神を愛し,神のために人類を愛し,人類のために自分を愛します。前者は単なる自己愛の肥大(自我インフレーション)であり,後者は己を神の道具と化します。トルストイは,神に捧げた自己を「神的個我」と呼びました。この神的個我こそ,自己犠牲を厭わず己の敵を愛し,すべての闘争と戦争を終わらせるキリスト意識(Christ Consciousness)なのです。

「隣人を愛し,敵を愛する。すべてを愛することは,あらゆる姿で顕われる神を愛することだ。親しい人間を愛することは人間の愛でできるが,しかし敵を愛することは神の愛をもってしかできぬ。・・・人間の愛で愛していれば,愛から憎悪に移ることがある。だが,神の愛が変わることはあり得ない。何ものも,死も,絶対にそれを破ることはできぬ。これは魂の本質なのだ」(「戦争と平和」アンドレイ公爵に啓示された神の愛)

「それゆえ,万人が神の教えに従って戦争を止め,剣を鋤に,槍を鎌に鍛え直す日がやってくるという,つまり現代式にいえば全ての監獄・要塞・兵舎・宮殿・教会が空になり,絞首台や小銃や大砲が全然使用されなくなる日がやってくるという預言は,もはや単なる幻想ではなくて,人類が加速度的に近づきつつあるところの,一定の生活形式なのである」(「神の国は汝らの内にあり」)

 トルストイにとってキリストの福音とは,山上の垂訓を指しました。山上の垂訓とは,マタイ伝に記載された「神の国の倫理」です。山上の垂訓は,五つの倫理によって構成されます。

①  怒ってはならない。
②  姦淫してはならない。
③  誓ってはならない。
④  悪に悪をもって抵抗してはならない。
⑤  人の敵となってはならない。

 これらすべての倫理は,「神と隣人を自分のように愛せ」という勧告に集約されます。つまり,無私無欲となって神と隣人を愛する時,神の国の市民たる資格が生まれるのです。しかし人間は,一気呵成に神の子と成るのではありません。生命が徐々に成育するように,人間は段階的に神の子に近づきます。トルストイは,慈父のような優しさで,悩める若者に山上の垂訓の段階的成就を説きました。
 第一段階は,すべての人を愛することです。そのためには,他者を侮辱してはなりません。第二段階は,心の中までも純潔になることです。そのためには,淫乱な思いを戒めねばなりません。第三段階は,明日を思い煩わず,今を生きることです。そのためには,決して誓わず,絶対に約束しないことです。なぜなら,誓いと約束は,明日を固定化する行為だからです。第四段階は,暴力を振るわないことです。そのためには,悪によって悪に報いてはなりません。第五段階は,敵を愛することです。そのためには,敵に悪を行なわず,善意によって接しなければなりません。つまり,常に人を赦し続ける必要があります。
 こうした絶え間ない努力の末に,人間は神の子たる資格を得るのです。いや,神の子たる資格を得るよう前進する態度こそ,イエス・キリストの精神なのです。

神の国は実現するのか?


 多くの人は言うでありましょう。「神の国は本当に成就するのか?」と。「争いのない平和な世界は,本当に実現するのか?」と。しかし考えてみて下さい。野蛮人に国家という概念はありませんでした。ですから野蛮人にとって,部族同士の争いを止めて民族的に一致団結することなど,夢物語だったに違いありません。しかし今や,人々は民族的に団結し,国家というより大きな共同体を形成しているではありませんか。

「現在我々には,キリスト教の四海同胞主義や民族無差別主義や私有財産の廃止や,実に奇怪に見える暴力による悪への無抵抗の要求は,不可能な要求のように思われる。でも幾千年も前のはるかな古代には,単に国家的要求のみならず,家族的な要求さえ,たとえば両親は子どもたちを養育すべしとか,若者たちは老人を養うべしとか,夫婦は互いに貞節たるべしとかいう要求でさえ,やはりそんな風に思われたのである。さらにまた国民は,樹立された権力に服従し,税金を納め,祖国防衛のために戦争に赴くべし,などという国家的要求は,現在の我々にとってはみな簡単明瞭で,当然至極で,なんら神秘的なこともなく,不思議なことさえもない。けれども五千年ないし三千年昔には,それらの要求は不可能なものに思われたのである」

 トルストイの主張には賛否両論あるでしょう。しかし,トルストイの最大の功績は,福音の能動性を復興したことです。キリスト教は二千年間,「人間は神の計画に従う世界の傍観者である」という宿命論に甘んじてきました。しかしイエスは,一度もそんなことを教えていません。むしろイエスは,「わたしに従い世界を変革せよ!」と説いたのです。
 イエスはかつて,「神の国はいつ来るのか?」と問われ,「分からない」と答えました。イエスが無知だったからではありません。神の国は人類が成就すべきものだからこそ,「汝らの行動によって決まるから,汝ら次第である」と言ったのです。人間は,地球の乗客ではありません。地球の乗組員です。つまり,この世界を変える主体なのです。その主体である人間が,「神の国はいつ来るのか?」と聞いたところで,イエスは「分からない」としか言いようがありません。私たちが為すべきことを為せば,神の国は早く来るでしょう。私たちが為すべきことを為さねば,神の国はいつまで経っても来ないでしょう。私たちが「世界はいつか終わる。そして,選ばれた者だけが救われる」と自惚れれば,世界は本当に破滅するでしょう。
 「神の御業の参加者となれ!生の奴隷ではなく,生の創造者であれ!」これこそ,トルストイの根本的メッセージだと思われます。

トルストイの前世


古代ギリシャの詩人


 トルストイの前世は,古代ギリシャの詩人ホメロスです。大叙事詩「イーリアス」の作者であり,ギリシャ人の価値観に多大な影響を与えました。ちなみに「イーリアス」とは,トロイア戦争を描いた物語です。


ホメロス



 気になる方は,是非,トルストイの「戦争と平和」とホメロスの「イーリアス」を読み比べて下さい。両作品の共通点に気づかれると思います。様々な物事や人物を俯瞰する統一した視点から歴史を理解する姿勢,永遠の静けさと運命の息づかい,運命の神の手に身を委ねる正しさ,神の法則への服従と祖国への自己犠牲。「戦争と平和」では,ちょうどホメロスの英雄たちの背後に神がいるように,民衆たちの背後にも彼らを導く神がいるのです(ピエールとアンドレイは,多くの悲劇と苦悩を経て,愛と信仰による救済と歓喜に到達します)。一人一人の人物描写が,大きな歴史の流れを作る。これが,両作品の共通点かつ独自性だと思われます。

「観察の対象に無限小の単位―歴史の微分,すなわち人々の同種の渇望を認め,積分(これらの無限小の数値の総和を得る)方法を発見して初めて,我々は歴史の法則を究める希望を持つことができるのである」

この魂の使命


 ホメロス→トルストイと転生した魂の使命は,大叙事詩を通して,新しい時代の生き方を呈示することです。人生観には三つあります。第一に,個我的・動物的人生観です。個人の幸福と権利を求める野蛮人の人生観です。第二に,社会的・異教的人生観です。民族・国家のために生きるギリシャ・ローマ的人生観です。第三に,神的人生観です。「人間の生は神の中にある」という福音的人生観です。
 ホメロスの使命は,個我的人生観に生きる野蛮時代の中で,それより高次の社会的人生観を指し示すことでした。「イーリアス」の英雄が,民族・国家のために生きる所以です。トルストイの使命は,社会的人生観に生きる現代文明の中で,それより高次の神的人生観を呈示することでした。「戦争と平和」の主人公たちが,神とキリストのために生きる所以です。
 ギリシャ語には,「ヘーロース」という言葉があります。「イーリアス」によく登場する言葉であり,「ヒーロー(英雄)」の語源です。では,ホメロスにとって,英雄とはどんな存在だったのでしょうか?ホメロスにとって英雄とは,「トロイア戦争に自ら進んで参加し,行為と言論によって新しいことを始める自由人」を指しました。違う言い方をすれば,「私的領域を飛び出して,自分がいったい誰であるか公的領域において明らかにする勇者」を指しました。このホメロスの英雄像を具現化した者こそ,民主的政治家のソロンやペリクレス,哲学者のソクラテスや雄弁家のデモステネスだったのです。
 では,トルストイにおける英雄とは,どんな人物を意味したのでしょうか?それは,イエスの教えを実行する者です。山上の垂訓を文字通り実行し,非暴力主義を貫く人間です。このトルストイの英雄像を具現化した人物こそ,ガンディーやキング牧師でした。故に,福音の精神を実行したガンディーこそ,現代のアキレウスといえるでしょう。

トルストイの矛盾


「トルストイは偉大である。問題の解決においてではなく,問題の提示において,問題を徹底的に生き抜いたことにおいて,彼は偉大である」(井筒俊彦)

 私は,トルストイを尊敬しています。そして,彼の果たした功績に敬意を表しています。しかし,彼にも欠点がありました。それは,イエス・キリストを神の子と認めなかったことです。トルストイにとってキリストは,偉大な賢者の一人であり,釈迦・老子・孔子・ゾロアスター・イザヤなど歴史的偉人の一人だったのです。
 ドストエフスキーは深い苦悩を味わいましたが,キリストという最後の逃げ場がありました。しかしトルストイは,誰にも頼らず,人生と世界の究極の謎を解こうとしました。まるでニーチェのように,信仰によらず己の努力によって,究極の真理に到達しようともがいたのです。その結果は?ニーチェは最後に発狂しました,トルストイは最後に錯乱しました。キリスト信仰とそこからくる永遠の命を知らなかったトルストイは,進みゆく老化と迫り来る死の恐怖に打ち克てなかったのです。

「年をとるとは何を意味するのか。年を取るとは髪が落ち,歯が抜け,皺が出来,口から吐く息が臭くなることだ。ベタベタに塗りつけたべに,白粉,そして汗と悪臭と醜い姿,そういうものがはっきり意識されるようになる。私が今までに奉仕してきたものは一体どこに行ってしまったのか。美はどこにあるのか。美こそ一切なのに,もうそれがない。何もない。生がない」(1894年)

「今日ではなくとも,明日にも自分に病気と死が襲いかかって来るかも知れぬ。そうなれば腐臭と蛆虫の外に何も残らないのだ」

 確かにトルストイは,老いと死に怯えました。しかしトルストイは,人間の自由を明らかにした大偉人であることだけは確かです。人間の自由とは,神の事業の喜ばしき協力者になるか,あるいは,世界の傍観者(過去の原因)として運命に引きずられていくかにあります。惰眠を貪るキリスト教徒に対し「神の国のために努力せよ!」と訴えたトルストイは,まさしく次世代の価値観を指し示した現代のホメロスといえるでしょう。

「今この文章を読むあなたが誰であろうとも,あなたの立場とあなたの義務に思いを潜めて下さい。・・・あなたの真実の義務,この世に生を享け,理性と愛とを授けられた存在としての,あなたの真の立場から生ずる義務について思いを潜めて下さい。あなたはあなたをこの世に遣わした者,まもなくあなたがその側に帰ってゆかねばならぬ者が,あなたに求めていることを為しているか?果たして彼があなたに要求するところのものを行なっているか?」(「神の国は汝らの内にあり」)
 

以下は関連書籍です。

① ガンディーの生涯と前世

② キング牧師の生涯と前世

③ ドストエフスキーの思想と前世

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