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カフカ文学の本質

「いつか私の時代が来る」(カフカ)

カフカについて


カフカの使命


 カフカを生涯悩ませたもの,それは形而上学的なメランコリーでした。自分のいる状態の根源的な奇妙さ。必然性にとらわれ,必然性を賛美する社会の姿。自由なき必然性の世界。凡人にとって,この世界は何の違和感もないでしょう。しかし,本来的自己に目覚めたカフカにとって,この世界は歪(いびつ)でエゴイスティックな代物だったのです。
 例えば,「皇帝の使者」という短編があります。皇帝から遣わされた使者は,走っても走っても我々のもとに到着できません。この短編は,神と我々との無限の距離,神なき自由なき必然的世界に生きる人間の心理地図を描写しているのです。
 カフカにとって小説とは,単なる創作行為ではなく,「夢見状態の記述」でした。カフカのいう神秘体験です。つまり,無意識状態で書くことに没入し,直観によって予知した人類一般の限界を書きつける行為でした。

「心の中からストーリーが溢れ出る秘密の力,最後の力」(カフカ)

 カフカは,発表されるあてがなくても,周囲から評価されなくても,書くために結婚を諦めても,大インフレ下で凍えながらペンを握っても,結核で血を吐いても,書くことを決して止めませんでした。なぜなら,“無意識から発するストーリー”を記述することこそ,カフカの使命だったからです。

「私の唯一の願いであり,私の唯一の仕事」

カフカ文学の特徴


 カフカ文学には,大きな秘密があります。それは,主人公の名前です。主要な小説の主人公は,すべてカフカ自身,つまり「私」でした。「変身」のザムザ(Samsa)は,カフカ(Kafka)の子音を取り換えた名前です。三部作(「審判」「城」「アメリカ」)に登場するKとは,カフカ(Kafka)のKです。
 なぜカフカは,主人公の名前を「カフカ」にせず,敢えて「K」という頭文字にしたのでしょうか?それは,主人公の名前をKにすることにより,個の特性を一切捨象し,すべての人がKの中に自分を見るよう企てたのです。つまり,すべての人が主人公に自分を投影できるよう配慮したのです。その証左に,主人公の顔つきや身長・性格や好みの描写が一切ありません。私たちはカフカ文学を読むとき,Kの中に自分自身を見るのです。

「変身」


カフカの世界観


 カフカの職業は,労働者保険協会の役人でした。しかし,カフカの使命は,作家として文学作品を残すことでした。作家として本来的自己に目覚めたカフカにとって,この世界はあまりにもグロテスクな代物でした。人間が疎外された世界。家族によって,社会によって,国家によって疎外された人間の姿。

「人生を虚無として,浮動としてとらえたい」(1920年の手記)

 この仮象の世界において,本来的自己は一匹の虫になるのです。なぜなら,この虚構的世界の住人にとって,本来的自己は,姿形も異質で,言葉もよく通じず,気持ちもわからない存在だからです。主人公であるグレーゴル・ザムザが,ある日突然,一匹の虫になる所以です。
 人が虫になる,これは価値観の完全な逆転を意味しています。虫にとって,部屋には何もない方がいいのです(人間は家具を好むのに!)。なぜなら,自由に這い回れるからです。虫にとって,腐ったものが旨いのです(人間は新鮮なものを好むのに!)。カフカは,本来的自己を虫に譬えることによって,歪な世界を逆照射的に映し出しました。

本来的自己


 神の似姿である本来的自己(自由と創造力に満ちた個性)は,必然性に甘んじて生きる人々にとって邪魔な存在です。「変身」において,それがよく表現されています。家族にとって,虫になった息子は「ザムザ」ではなく,単なる「これ」でした。ザムザが死んだことによって,家族は神に感謝の祈りを捧げます。なぜなら,邪魔者が消えたからです。そして皮肉なことに,ザムザが死んだことにより,家族はこの世の自由と幸福を手に入れるのです。

「審判」/カフカの敗北


必然性の世界


 「審判」で描かれている世界は,必然性に支配された世界の赤裸々な描写です。誰一人,“自分が何のために行動しているか”わからない世界です。生きる意味が失われた世界,すべて上からの命令によって動く人々の群れ。食べるために歯車となって働く思考停止した人々(ヒトラーに盲従したアイヒマンのように!)。

「義務を果たしたまでのことだ」(主任のKに対する返答)

 それは,自分の職務さえ果たせばいい,自分の行動の意味を何も問わない世界です。あたかも,世界が一つの大きな組織になり,高低様々の審判者の層になった世界。

「わかった!君たちは一人残らず役人なんだね」

 主人公であるヨーゼフ・Kのこの言葉が,すべてを表しています。すべての人間が世界の歯車となり,官僚的な同質的社会の苦しみの下にある世界。この世界に生きる人間は,いつしかこう思うようになります。「少なくとも,自分などいなくてもどうでもいい人間なのだ」と。

必然性の勝利


 カフカ三部作の最初に位置する「審判」では,世界の必然性が勝利し,ヨーゼフ・Kは敗北します。必然性の力はあまりにも大きく,抵抗する個人を圧死させてしまうのです。巨大組織の中心にいる僧侶と主人公の対話が,それをよく表現しています。

僧侶「真実など問題にしてはいけない。ただ必然があるばかりだ」
K「虚偽が,支配原理に祭り上げられている」

 Kは達観します,この必然的世界において大事なことは「最後まで落ち着いて協調を保っていくことである」と。そしてKは,絶望に打ちひしがれ,野良犬のように死んでいきました。

「犬のようにくたばり,残ったのは屈辱だけだった!」

「城」/カフカの戦い


宣戦布告


 第一作「審判」で敗北したKは,第二作「城」において必然的世界に戦いを挑みます。物語の冒頭にあるように,Kは必然性の象徴である城と戦うため,遠方からやって来るのです。

「意気を阻喪させるような,ふやけきった環境の圧力,幻滅に慣れてしまうことや微細かもしれぬが,たえず襲ってくるいろんな影響などが及ぼす力―Kが怖れたのはもちろん,そのような圧力に負けてしまうことであった。しかし,このような危険に対してこそ,敢えて戦うことが必要であった」

 城は,現代社会の縮図です。どの会社に勤め,どんな地位にあり,どの程度の給料をもらっているか?こういった社会的属性が,すべてを決定してしまう世界です。

「あなたのことなら,何もかも知っていますわ。あなたは,測量士さんです」(フリーダ)

 酒場の女給仕の言葉が,この世界の本性をよく表しています。職業がすべてを規定する個性なき自由なき世界。あたかも監獄のように,私たちはたった一つの価値基準で判断され,価値評価され,裁かれ,生きることを余儀なくされているのです。

「Kは,職務と生活がここまで交錯しているのを,かつてどこの土地でも見たことがなかった」

世界の本性


 必然的世界に戦いを挑み,必死に抵抗を続けるK。しかし,城は無情にもKを押し潰します。城とは,世界が一つの役所になった姿です。つまり,世界そのものが神になったのです。人類史における最大の無神論的世界です。この世界において,人間は許すことはできず裁くだけであり,すべての人は部分しか知らず,誰も全体を知らないし知るつもりもありません。世界を変革する人間がいないどころか,すべての人は問題を事務的に処理することしかできず,一面的にしか物事を見ません。
 美しい服を着るだけが目的の女将,酒場で下働きをするだけの女,城に命じられたことだけを遂行する二人の助手。この小説に登場するどの人物も,“物事の意味”を問いません。生きる意味を問わない世界,つまり,個性も決断もない世界です。

「アメリカ」/カフカの勝利


ユートピア論


 三部作の最後「アメリカ」は,カフカのユートピア論です。この未完の大作「アメリカ」において,カフカは必然的世界に対する勝利を描きました。自由の女神がたいまつではなく剣を握っているのは,必然的世界に対する勝利を暗示しています。なぜアメリカが,ユートピアの舞台になったのでしょうか?それは,ドイツ・フランス・イタリア北部しか知らないカフカにとって,アメリカは無限の生命力と可能性に満ちた憧れの的だったからです。エネルギーに満ちて,混乱していて,それでいて寛容な新世界。旅人に親切な風土,努力と才覚によって立身できる社会。
 不況は,ヨーロッパに猜疑心と敵意と恐怖と羨望だけを生みました。が,アメリカでは,互助精神と他人に一か八か賭けてみるという積極性を生んだのです。カフカにとってアメリカとは,政治的天分に満ちた希望の国,民衆の聖者リンカーンをもつ世界唯一の国,新しいアトランティスだったのです。
(注)カフカは,ベンジャミン・フランクリンの「自伝」を愛読書とし,ディケンズ文学を好み,チャップリンの映画をこよなく愛しました。

 主人公のカール・ロスマンは,魂が純潔で高貴な若者であり,理想的人間の象徴です。カール・ロスマンの善良さは,「善のための戦い」を意味しています。
 出会ったばかりの火夫のため,会計上の不正を訴えにいく人の善さ。誠実かつ正直な人間性,人々の期待と愛に応えようとする態度。自己中心的な人間(アイルランド人のロビンソンとフランス人のドラマルシュ)にもやさしく接する真っすぐさ。ホテルの女コック長の秘書テレーゼに対する同情心。裏切った者を赦す心。自分は乱暴されても決して怒らないのに,一生懸命働いている門衛助手をバカにする門衛長に憤慨する高潔な性格。元歌手ブルネルダの召使に成り下がっても,決して失わない自由と独立の精神。まさしくカール・ロスマンは,ドストエフスキー文学におけるムイシュキン公爵(「白痴」の主人公),現代に降臨したイエスといえるでしょう。

神の国


 「アメリカ」の最後に描写されているオクラホマの野外劇場は,カフカにおける神の国,地上の天国を表現しています。人員募集のポスターは,まるで神の国への招きのようです。

「前途の希望に生きんとする人こそ,我らの同志である!」
「我らの劇場は,あらゆる人士を必要とし,各人を適材適所に活用せんとしている!」
「我らに共鳴・参加の決意をせられたる人に,我らは即刻この場にて祝辞を送る!」

 神の国が天使に満ちているように,野外劇場は何百人という天使の衣裳をつけた女たちに満ちています(そして,勝利のラッパを吹き鳴らしている)。神の国が広大であるように,オクラホマの劇場も世界一広大な大劇場です。募集隊はいたるところで採用を呼びかけますが,志願する人があまりいませんでした。これはあたかも,神の国への参与を呼びかけるイエスの言葉と同じではありませんか。神が人々の行くべき場所を決定するように,支配人は競馬場の審判官席にいて採用を決めています。野外はたくさんの御馳走に溢れ,たくさんのぶどう酒に満ち,誰もかれも嬉しさのあまり興奮しています。また,野外劇場において,今まで出会った善き人々(天使役の女友達ファニーやエレベーターボーイの同僚ジャコモなど)と再会します。

採用官「ところで,君は何を研究するつもりだったのかね?」
カール「僕,技師になるつもりでした」

 そして,カールは技術労務者として採用されました。必然的世界をあてもなく放浪したカール・ロスマンは,ようやく一つの仕事を見つけ,一つのことに末長くたずさわれる希望を見つけたのです。神の国は,死後の世界ではなく,ましてや天上の世界でもなく,この世の真っ只中で成就しなければならない。これが,カフカ文学の最終的結論なのです。

カフカの遺言


 カフカが伝えたかったこと,それは必然的世界に対する戦い,つまり本来的自己の物語でした(ちなみに,カフカは本来的自己を強調したキルケゴールの影響を受けています)。作品が進むにつれ,主人公の名前が変化しています。「K→ヨーゼフ・K→カール・ロスマン」と,単なるアルファベットから具体的な固有名詞へ。「名を与えられる」とは,聖書において,創造的主体に変貌することを意味します。つまり,人間は創造的主体としての本来的自己に目覚めつつ,この出来損ないの世界を解体し,再構築すべきである!そう,カフカは我々に訴えかけているのです。
 では,なぜカフカ文学には,神やキリストが登場しないのでしょうか?それは,キリストが“語りえぬ存在”だからです。語ることができないほど崇高であるが故に,カフカは最期まで沈黙したのです。カフカ文学を理解するためには,作品の背後にあって我々に語りかけるキリストを想定せねばなりません。

「内的人生は,ただ生きることができるだけだ。描写できない」(カフカ)
「沈黙は完全さの属性である」

(注)「語りえぬものは沈黙するしかない」と述べた哲学者ウィトゲンシュタインと文学者カフカの思想的親近性は,研究に値するかもしれません。両者とも福音書に影響を受けながら,両者ともキリストを語りませんでした。
 

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