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#週一文庫「現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記 」(角川ソフィア文庫)久米 邦武、 大久保 喬樹

今週の一冊は、米欧回覧実記

明治維新真っ只中の1871年に、岩倉具視をはじめとする使節団が、アメリカ~ヨーロッパへと視察に渡った際の随行記です。


一番おもしろかったのは、P440-443 第九十巻 欧州地理・運輸総論
陸路と海路の連携

欧州各国の文明が進んだのは国民の利益を図ろうと競って励んだ積み重ねの結果であり、その中でも自然条件の利用に努力してきたことの成果は今回の視察において最も注目すべき点の多いところだった。沿岸部では海からの利益を得る。山間部では陸から利益を得る。陸路で運ばれた物産を海路で送り、それを陸路で運ぶ。この陸路と海路は欧州貿易を論じるにあたっての二大要素であり、両者が相まって反映をもたらすのである。(中略)
我が日本も遠いとは言いながら、その産物は数ヶ月を経ずに欧州のし上に出るだろう。(中略)
道路は元来、人が行き来する便に供する為だけのものではない。地上に算出される百貨全般を価値あるものとする場所に移動させる為のものでもあるのだ。運搬は必ずしも叡智ある人が全力を尽くす必要があるようなことではない。いやしくも自分で動かす力を発揮できる者ならば誰でも当たることができる。わかりやすい理屈である。(中略)欧州人は荷を担がず、欧州の馬は負わない。それでいて様々な物を運搬すること十倍、百倍である。なぜか理由を知らないで済ます訳にはいかない。欧州人は荷を担ぐ力を道路の修繕にあて、馬に負わせる代わりに車輪のちからを利用するからである。平らでなめらかな通路に車輪を走らせるなら一の力で十の重さを運ぶことができ、さらに省力の手立てを考えて鉄製の軌道を敷いて路線を堅牢円滑にし、方向をまっすぐにすれば、蒸気の力も運搬の用に使える。

価値あるものとする場所はどこか

P450からの引用

およそ天然の資源は必ず人のてを経て実益をもたらすものであり、自然の産物に人の手を加えて作り変えることを工業と言うのであり、物産を生産地から消費地に移動させるのを商業と言う。

遥か昔の、物々交換の時代から変わらないですが、気にする瞬間は少ないと思います。つまり、今じぶんが消費している水やら食べ物やら、この記事を書いているPCやら、じぶんの周りを囲むものは、すべて今じぶんが居る場所とは、”違うどこか”から運ばれてきたものということを。

ということは、今じぶんが居る場所に運んできた誰かがいたのであって、その先で材料に手を加える人たちがいたのであって、もっと言えば彼らが材料を手に入れるために、海から魚を獲った人たちや、大地から石油を吸い上げた人たちがいたのであって......

兎に角「運ばれててきたもの」に、じぶんらは囲まれています。

似たことが、コペル君の発見として「君たちはどう生きるか」吉野源三郎 にも書かれています。

P84-87ニュートンの林檎と粉ミルク

僕は、こんどの発見に、「人間分子の関係、網目の法則」という名をつけました。(中略)
僕は、寝床の中で、オーストラリアの牛から、僕の口に粉ミルクがはいるまでのことを、順々に思って見ました。そうしたら、まるできりがないんであきれてしまいました。とてもたくさんの人間が出てくるんです。ためしに書いて見ます。

こういったことを読んでも、最初は「あー、つまり輸送業のことね。はいはいよく知ってる。それかあれでしょ商社のことでしょ?」という風に軽く受け止めて、それ以上深く考えることはないのですが、今回はあえて少し立ち止まってみようと思います。

章タイトルにした通り「価値あるものとする場所はどこか」ということについて。

仮に今、海で魚を獲ったとして、すぐに考えられるのは、
①じぶんで捌いて食べる。
②ご近所さんとお裾分けする。
③卸売業者に手渡して、幾ばくかのお金をもらう。
といったようなことでしょうか。

①②はよいとして、③は「お金」を対価として手に入れています。

つまりこの場合、「卸売業者」が、じぶんにとっての「価値あるものとする場所」になります。次に「卸売業者」は、魚を「小売店」へと販売をする。あるいは産地直送として「飲食店」かもしれないですね。彼らが「卸売業者」にとって「価値あるものとする場所」であるということになります。

もしもじぶんが、「価値あるものとする場所」である、「小売店」や「飲食店」を直接知っていれば、直売することだって可能ではあると思います。仮にこれに”商流のスキップ”という名前をつけてみます。メーカー直販なんかが同じですかね。

でも、"商流のスキップ"ができない場合もあります。

たとえば、じぶんの届けた魚を、商流に挟まっている「卸売業者」に該当する人が独自の加工をしている場合です。

料理人の方が独自の素晴らしい調理をなさって、お客様へと提供しているのであれば、じぶんが"商流のスキップ"をして、お客様に魚を販売するのは困難なことであると思います。

あるいは卸売業者は、他の漁師からも魚を買って、セットで販売する。といった加工をしているかもしれません。この場合も卸売業者からその魚を購入する際には、セット販売という加工されたものに対して価値を感じお金を払っているのですから、商流のスキップをして直売することは難しいかもしれません。

したがって「価値あるものとする場所」の人たちが、その魚を買ってくれるのは、魚そのものに価値を感じているのはもちろん、魚に施されている様々な加工も含めて「価値」としてくれているからに他ならないということです。


でも、何ら独自の加工を施すこともなく、ただ転売をしているのであれば、"商流のスキップ"が起こるのは、あまり不思議なことでは無いかと思います。

商慣習上、そういったことはするべきではない。という声も聞くことのあるのですが、「安さ」も一つの価値であるとするならば、いずれは避けられないことなのかなと思います。

そういった"商流のスキップ"に対してのある種の恐怖と諦めが入り交じると、考えるべきことの輪郭線が出てきます。

つまり先述の通り「独自の加工」を身につける必要があるということです。

これまた一周回って当たり前のことのように聞こえるかもしれませんが、落ち着いて考えてみると本当にそれができているのかについては、ちゃんと考えるべきだと思うのです。

すなわち「じぶんは何を仕入れ、どのような加工をし、何として誰に売っているのか」という問い。あるいは「彼/彼女は何を、他かから買う場合よりもここがよいとして、じぶんから買っているのか」といった問に、答えを用意すべきと思うのです。

前者はプロダクト・アウト、後者はマーケット・インと考えてもよいかもしれません。

前者であれば「価値あるものとする場所」そのものを増やすことができるかもしれません。後者であれば「価値」そのものを見つけ出して、新しい商品もしくは加工技術をつくることができるかもしれません。

いずれにせよ、先程のような質問に答えることができなけいのであれば、「独自の加工」はできていないのであり、いずれじぶんは"商流のスキップ"によっていらない存在になりかねないとは思うのです。あるいはよりよい加工の施された、じぶんとは異なる人から商品を買うようになってしまうのでしょう。


馬車が禁じられていたという江戸時代
~車輪をどこに置いてきた~

冒頭の引用から、再度抜書きします。

欧州人は荷を担がず、欧州の馬は負わない。それでいて様々な物を運搬すること十倍、百倍である。

「えっ? 日本って江戸時代終わるまで馬車無かったの??」と、驚きました。少し調べてみると、理由として①馬は武家の特権であり、一般には禁じられていたとか。②効率的になると失業者が出るからとか。幾つか見当たりましたが、少なくとも一般的に利用されてはいなかったようです。

車自体は、平安時代の頃から牛車のかたちで使われていて、江戸時代にももちろんあった。その牛→馬に変わるくらいは当然想像できていたことで、大阪の儒者・中井竹山が、老中・松平定信に馬車を採用することを提言したのに、それが却下されたという記事もありました。

これがもし「いいもの使うのは身分の高い人の特権だから」とか、「効率的になると人がだらけるから」とか、「人力の努力で補うことができる」みたいな意図であるとしたら、何やら似たようなことを揶揄する記事を、以前見ましたね。

事の真意はじぶんだってもちろんわかりませんし、少なくともじぶんの会社に関して言えばそういう環境に無いので構わないのですが、「効率嫌い」というのは一定の確率で出会うものなのかなと思います。

会社から貸与されたPCが、はるか昔のOSを、僅かなメモリで動かしているものであったとしても、努力によってまかなえる。

あるいは、あまり効率的にしすぎると、じぶんで考えないようになるので、ただ為すがままにするのではなくて、手計算したり何なりしなさいよ。と。

ここで一つ前の見出しで取り上げた「独自の加工」に戻ります。

「馬車」によって独自の加工を持たない「魚の卸売」が無くなるなんて書くと、抽象的過ぎてむしろ間違って捉えられそう。

あえて突き進んで書くと、ここには2つの問題があります。

一つは、「馬車」という効率的な方法があるにもかかわらず、ただただこれまで通り「馬に負わせる」方法をとっているというやり方に固執するということ。

もう一つは「馬車」という効率的な方法を、理解もせずに言われた通りに使って頼り切ってしまうということ。

前者はわかりやすく、旧習に固執する弊害です。後者は無能の弊害です(言葉は強いですが)。

車輪があって、馬もいて、運びたいものはたくさんある。
組み合わせれば今より遥かに効率がよくなることがわかっていて、"様々な物を運搬すること十倍、百倍である。"となる事実がほぼ目の前にあるにもかかわらず、みすみす逃してしまう。これが、旧習に固執する弊害です。

一方で、馬車を使っていながらも、馬の育て方や馬車の原理・メンテナンス方法といったことを知らずにただ使っているだけでは、何か不都合が置きたときに何も対処できなくなってしまう。旧来のやり方の延長線上にあるのだから、もちろん旧来のことを知らなければ上手くできない。そういったことを理解した上で、馬車をじぶんの「独自の加工」として身につけない限りは、「価値あるものとする場所」の側から価値への疑念を持たれ、無能扱い、ひいては"商流のスキップ"なども発生するのです。

「馬車」だ、「魚」だ、「独自の加工」だなんて、随分回りくどい表現で書いてきましたが、ここ数年のバズワードにも近いものがありますよね。

「AI に仕事が奪われる」なんて。

じぶんだって AI万能論者 ではなないつもりですが、こういった馬車に該当するものについては、知りたいと思いますし、できれば乗りこなせるようになりたいです。


「馬車」が「価値あるもの」とされたのは、輸送や貿易といった「商業」において、効率的な技術であると認められたから。

では、「じぶんは何を仕入れ、どのような加工をし、何として誰に売っているのか」。あるいは「彼/彼女は何を、他かから買う場合よりもここがよいとして、じぶんから買っているのか」。

再度この問いに戻ったときに、「独自の加工」として何を活かす(残す)べきか。そのためにより効率よくできるための「馬車」は何であるのか。


じぶん個人の話であるとするならば、「UI/UXデザイン」, 「Pythonによる自動化」, 「広告畑で培った販促思考」といったものを選び残したいのですが、具体的なところでは、まだまだ整理がついていないなあと思うのです。


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