メタフィジカル・クッキング

コインには裏表があるよね、という話。

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人生というのは不思議なもので、
時に何かを与えていくこともあれば、何かを奪っていくこともある。
「こんなもんいらねえよ!」というものばかりを潤沢に与えてくることもあれば、
「これだけは持っていかいないでくれ!」というものを、いともたやすく奪っていくこともある。

そこにどんな理由があるのか懇切込めて問いただしても、等の人生サイドは
「だってそれがアタシの仕事だもの」とでも言わんばかりのお澄まし顔だ。
しかし、そう冷徹に告げる彼女の唇が微かに震えていることだけは、僕にもわかる。
彼女もきっとツライのだろう。
しかし何が彼女をツラくさせているのか、僕にはまだわからない。

さておき、
そんな訳で僕はなぜか、これといって特に強く望んだ訳でもないのに、
ある程度の英語力が備わっている。
積極的に身につけたスキルでこそないが、この力には感謝することが多い。
日常、特に酔っている時に多いが、そのへんで何かしら困っていそうな外国人に 

"Hi, may I help you?"

と尋ねて、結果的に死ぬほど感謝されるということも少なくないし、
なんなら直接的にお金につながるスキルでもある。
だが、それらのことを差し置いても、僕が最も深く感謝しているのは
このスキルによって僕が【海外のコメディ】というものを理解できるようになったことだ。
クソ面白くもないで有名なアメリカンジョークのことは一旦置いておくにしても、
海外の人たちがどんなことで笑い、どんなことでコメディアンに拍手を送るのか、
原文のまま理解できるというのは大変ありがたいことだ。

George Carlin(ジョージ・カーリン)というコメディアンがいる。
彼はアイルランド系アメリカ人の両親を持つニューヨーカーで、
いわゆる「団塊の世代」よりも一世代ほど上の、筋金入りのおじいちゃんである。なんと説明したらいいか、とにかく彼は路上に落ちてる比較的新鮮そうなものを拾って食べ、友人たちとドブ川で泳ぎ、おこづかいの3セントかそこらを持って近所の駄菓子屋でペパーミントキャンディを買っていたような、僕たちが憧れたアメリカのおじいちゃん世代である。ちなみに故人だ。

彼のスタンドアップコメディショー(いわゆる漫談)をYoutubeで見つけ、
その視野の広さと演出された了見の狭さ、そして観衆の心を削ぎ取るような「真実を伝えるテクニック」を見て、僕は即座に恋に落ちた。

It's a big club, and you ain't in it.
You and I are not in the club.

”この世界について”
George Carlin


ちなみに僕は談志も大好きだ。

彼や彼らについてはいずれまた別の機会に語るとして、
今日は僕がそんなジョージから教わって、自分なりに噛み砕いたことについて一つ書き残しておきたいと思う。

結論から言うに、僕は「権利」を信じない。

僕には幸せになる権利などないし、
あなたはあなたの思想を自由に発言する権利などない。
もちろん国民に主権などありはしないし、
また政府が仄暗い計略をもってあなたの生活を脅かす権利なども当然ない。

なぜって、権利とはひとつのアイデアに過ぎないから。
権利とはいわば「発明品」の一つなのだ。

そもそも僕たちに権利などなかった。
あるときオギャーと生まれたら、突き詰めて言えば、あとはもう死ぬだけだった。ところがあるときどこかの誰かが現れて「あなたには生存する権利があります! それを行使しましょう!」と言い出した。
持ってもいないものをある日突然でっちあげられて、話を聞いてみるとなかなかよさそうなものだったんで、せっかくだからその権利を行使してみた。

するとどうだろう、僕たちは幸せになったように思えた。
平等に働く権利があって、友人を作る権利があって、幸福に生きる権利があって、声をあげられる権利があって、そしてその権利は保証されていた。
そうやって与えられた権利というものが、やっぱりとてもいいアイデアのように思えたから、僕たちは「選択する権利」をもってその権利を享受した。
「理屈」のヴェールに包まれてこっそりとついてきた「義務」という名の謂れなき強制を、仕方がないと受け入れることにして。


そうして、僕たちには権利しかなくなった。


声を上げるにも息をするにも、陽にあたるにも外へ出るのも、
正しいことを行うにも悪徳を積もうにも、
「権利」を主張しないと、何一つ通らなくなった。

権利とは一つのアイデア、そう、ただのアイデアだ。
確かに、素敵なアイデアだとは思う。しかし所詮はアイデアで、作られたものだ。
「もったいないお化け」みたいなもんで、本当はそんなものどこにもない。

それに何より、権利には義務が伴うという。
言葉に騙されてはいけない。
つまるところ「権利を行使するには、ある一定の権利を放棄しなければならない」と言っているのだ。
「義務を放棄する権利」というやつだけは、どこにもないということを言っているのだ。

権利という発明は、あらかじめ自家中毒に陥っている。

僕たちは「そういう」コインを受け取ったのだ。
片面はきれいに磨き上げられていて、さぞかし素晴らしい意匠が施してあるのだろう。
荘厳に、しかしうやうやしく"RIGHT"とホラれた面だけを見せびらかして、
裏面に刻まれたおぞましい奴隷印は見て見ぬフリだ。
いや、もしかしたらそれが「同じ一つのコインなのだ」と認識すらできていないのかもしれない。
何故って、自分自身がその"RIGHT"の面を見つめる時、
他人からはその奴隷印がありありと見えていることに気付いていないから。

いずれにせよ、そんなものに縋っていては、
とてもじゃないが健康的だとは言えないだろう。
誰しもが、いい加減気づかなければいけない。
時代が進むとともに、謂れなき義務ばかりが膨張するその傍らで、
ご自慢の「権利」とやらは、少しづつ少しづつ狭められてきているではないか。

と、まあ、僕は僕なりにそんなカラクリに気がついたので、
「そんなもの」はサッサと捨てることにしたのです。

だって僕にはあらかじめ自由があるから。
権利を保障するもの、
すなわち義務を携えた偽りの自由、箱庭のように決められた範囲の中での自由を与える"Liberty"ではなく、
広く放たれた永遠の草原を好きなように歩いていける自由、
"FREEDOM"が、僕にはあるから。

もちろん、あなたにだってその自由はある。
誰にだって本来の、本当の自由がある。

そんな生き方をしていいのか、
本当の自由を選んでいいんだろうかって不安に思うかもしれないけれど、
そんなときは冗談でもいい、こう思い出したら楽になるかもしれない。




「選ぶ権利なんて、僕には無いんだったよな」って。




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