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6回 淡路町でコロナ退散!?

 このコラムは、StudioBpm.-kandaスタッフによる街歩きレポートです。
 スタジオ のある神田の町をより知りたいと、日々界隈を歩いて、新たな発見やちょっとした情報を記していこうと思ってます。
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 スタジオにはよく、最寄り駅からの道を尋ねる電話がかかってきます。
「はい、当スタジオは地下鉄淡路町駅から2~3分です」
 そのたびにこう答えているのですが、今回はその淡路町について探ってみました。

 まず淡路町の町名ですが、これは「淡路坂」から来ているようです。

 スタジオを出て左にいくと淡路町の交差点がありますが、これをさらにまっすぐにいくと、JR高架下をくぐって秋葉原にでます。この神田と秋葉原の境に流れているのが神田川、ここに掛けられているのが昌平橋です。

 さて、この橋を渡らずに左に向かうと上り坂になっています。この坂道が「淡路坂」というのだそうです。なんでも坂道の頂上付近に、鈴木淡路さんのお宅があったことから名づけられたんですね。

淡路坂

 各地の坂道の歴史や由来について詳しく調査されている「坂学会」松本祟男さんという方の「江戸坂見聞録」というホームページにはこう書かれています。(http://www.sakagakkai.org/index.html

『新撰神田誌』(岡村柳斎著・天保六年・1835)は「淡路坂は昌平橋西土手付の坂にして、寛永の頃より鈴木淡路守久しく居住、故に淡路坂と唱ふ」と坂名の由来を記している。

 つまり、「淡路さんのとこの坂道」が、いつしか「淡路坂」と呼ばれるようになったということですね。この坂道をのぼっていった左側に淡路さんの屋敷があったというのですから、この淡路さん邸、とにかく素晴らしい眺望だったでしょうね。

線路越しの学問所

 いまでこそ線路や駅が眺望の半分を奪っていますが、家の前は、坂道を挟んで深くえぐられた谷があり、その谷底に神田川が流れていて、対岸をみればうっそうと茂る樹木の間に「湯島聖堂」が見え隠れして…。江戸城に向かうたびに坂道を上り下ししなければならないのは大変ですが、この眺望は堪らなかったでしょう。

 ちなみに「淡路さん」というのは名前ではありません。本名は鈴木重泰(すずきしげやす)さんといって、これも前出HP「江戸坂見聞録」によると『寛政重修諸家譜』という徳川家の大名・旗本の系譜集に、該当する人物の名前があるとのこと。

『名は鈴木重泰(すずきしげやす)。二代将軍秀忠に仕え御書院番となり、のち御小姓組に転じた。寛文三年(1663)従五位下淡路守に叙任。延宝四年(1676)に62歳で没。秀忠、家光、家綱の三代の将軍に仕えた知行千石の旗本であった』

 当時は、武家をその苗字や名前で呼ぶことはなく官職名をもちいることが一般的だったため「鈴木坂」ではなく「淡路坂」となったのでしょう。

     ○

 淡路町の町名由来を探るだけであれば、本来、調査はここで終了となりますが、念のため千代田区が設置している「坂票」をみてみると、興味深い記述がありました。

 坂上東側には太田姫稲荷神社がありましたが、鉄道線路拡幅のため昭和6年に移転し、現在は神田駿河台一丁目にあります。この神社は、太田道灌が娘の疱瘡の治癒を祈願して、山城国(京都府)一口の里の稲荷を勧請して建立し、一口稲荷と呼んだと伝えられています。このことから、この坂には一口坂の別名もあります。

 この坂道を上った東側(つまり川のある方ですね。坂道と川にはさまれた細長いエリアということなのでしょう)に稲荷神社があったというのです。

 その遺構を探してみようと坂道を上がっていくと、のぼりきったところに交差点があります。「聖橋」のたもとにある交差点ですね。JR御茶ノ水駅の聖橋口のすぐそばです。

淡路坂上ご神木

 下から上っていくと、この交差点の手前右側。崖下への転落防止のフェンス際に、そこだけこんもりと樹齢を重ねた老木がたたずんでいます。その樹にはしめ縄がかけられ、御札が貼られ、「太田姫稲荷神社 元宮」とかかれた木札がぶら下がっています。

 ここが、太田姫稲荷神社がかつてあった場所だったことを示しているようです。

 元宮があるなら、現在のお宮もあるはずです。

 御茶ノ水駅の「聖橋口」と「御茶ノ水橋口」のちょうど中間あたり。ショッピングモール「サンクレール」の裏側に「御茶ノ水仲通り」という通りがあります。これを駅から離れる方向に300メートルも進んだあたりでしょうか。

太田姫稲荷

 ビル群の合間に、とつぜんクスノキの大樹が現れます。この樹に守られて建つのが現在の「太田姫稲荷神社」です。

 この神社、元の名前を「一口稲荷」というそうです。「ひとくち」ではありません。これで「いもあらい」と呼ぶのだそうです。

 なぜ「一口」と書いてそう呼ぶのか。なぜ「いもあらい」なのか。この問いには、実にさまざまな説があって、詳述するには紙数が足りません。残念ながらここでは割愛させていただきます。

 ただしその説の一つに、とても興味深いものがありました。
「いもあらい」の「いも」が「忌むべきもの」を示し、「あらう」が洗う、つまり「それを取り除く」という意味を示している、という説です。病気や悩みを取り除いてくれるということです。

 じっさい、江戸の町をつくったとされる太田資長(後の道灌ですね)が、娘が疱瘡(天然痘)にかかった際に、京都の「一口(いもあらい)」の里にまつられていた神に祈願したところ、娘はぶじに平癒。道灌はこれを喜び、その神様を江戸城内に勧請した、という故事があるそうです。

 そのため「一口稲荷」が、いつしか「太田姫稲荷」と呼ばれるようになったのでしょう(註1)。

 疱瘡といえば、江戸時代を通じて猛威をふるい、死亡するものが多かっただけでなく、生き残っても痘痕が残り、場合によっては失明することもあったといいます。恐るべき流行病だった、というわけです。

 さていま深刻な新型コロナウイルス。これもいわば「忌まわしき流行病」です。疱瘡には霊験あらたかな太田姫神社が、このコロナ禍からも人々を守ってくれることを願ってやみません。

 淡路町の町名探索から、意外な結論が導き出されましたが、淡路町でコロナ退散――。スタジオの行き帰りに、神社へのご参拝はいかがでしょうか。

註1
 神社の由緒書きでは別の説明がなされています。平安時代初期の公卿であり、文人でもある小野篁(おののたかむら)が、太田姫命(おおたひめのみこと)と名乗る白髪の老翁から、「疱瘡除けのために私を祀りなさい」
と、御神託を受けたというのです。そのご神託に従って839年(承和6年)に創建されたのが、この神社だったというのです。
 ではこの太田姫命はどんな神様だったのでしょうか――。日本書紀や古事記には「太田姫命」にかんする記述はなさそうです。それに白髪の老翁なのに、なぜ「姫」の名がついているのか。太田姫命が神社建立に関係したのなら、なぜ「いもあらい」の別名があるのか、などなど、この由緒書きには究明すべき点が少なくないようです。
 もちろん記紀に載らない神様は少なくありませんし、神社の由緒書きを否定するものでもありませんが、旧名「一口稲荷」が、太田さんのお姫様を救ったから「太田姫稲荷」になったとするほうが自然な感じがしますが、どんなものでしょうか…。

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