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3.11と私

「なぜ、孫の手トラベルのFoodCampを推すか?」シリーズ15回目。憐れんで欲しいわけでも、安全論を掲げたいのでもありません。福島で生まれ育ち、今、ここに暮らす人間として、この話題はやっぱり避けて通れない。いろんな考えがあり、どれも正しいと思うから、あまり語りたくなかったけど、今日は語ります。

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まさかのことが起こった

 2011年3月11日、私は単身で横浜にいました。結婚はしていたものの仕事が忙しくなり、またどこかで福島へ帰る気持ちに踏ん切りがつかず、別居婚を続けていました。

 その日は、オフィスワークで、部下の女の子とパソコンをパチパチ。すると大きな揺れを感じ、棚に立て掛けてあった額が倒れ、机の上が少し乱れました。しかし、その時はそこまで大変なことになっているとは露とも思いませんでした。

 何度か揺れが来たあたりで、部下の女の子がキャビネットからラジオを見つけ出し、少しずつ状況がわかってきました。そして、窓の外に目をやると、人が外に出始めていました。情報収集に行こうと、2人で最寄り駅まで歩いていくと、目の前の交差点の信号機が点いていません。さらに駅に着くと、私鉄もJRも全線不通、再開の目途は立っていないとのこと。とりあえず、帰る手段を確保するために家族に連絡を取るように部下に伝えましたが、すでに電話もつながりにくくなっていました。

 震源地が福島県沖と知るやいなや、実家と主人に連絡。奇跡的に電話がつながり、家族の無事が確認できました。しかし、時間の経過とともに尋常ではないことが分かってきました。

 私は、会社から2駅のところに住んでおり、歩いても30分程度。一方、部下は、電車で小一時間かかるところから通勤していたため、ご家族に迎えに来てもらうよう手立てを取りました。停電していたので、日没を過ぎると、会社の中は真っ暗。パソコンの液晶が照明代わりになりました。時計を見ると、夜の7時を回っていましたが、迎えに向かったという部下のご主人はまだ現れません。

 「先に帰っても、大丈夫ですよ」

と言ってくれましたが、さすがに部下を一人にするわけにはいきません。袖机に入っていたクッキーを二人で分け、ラジオから繰り返される地震関連の情報を固唾をのんで聞いていました。

 その時、帰宅困難という言葉を初めて耳にしました。もし、今日、都内の客先に行っていたら、私はまさしく帰宅困難になっていたでしょう。地方のお客様のところへ行っていたら、羽田で足止めを食らっていたでしょう。

 そのいずれでもなかったのは、とてもラッキーでした。そんなことを部下と話をしながら、待っていると、オフィスのドアが開きました。部下のご主人でした。エレベーターも自動ドアも当然動かないので、非常階段を上って来たとのこと。

 そして、ご主人の話によると、道路は迎えに出た車やタクシーでかなり渋滞していて、途中、バイクに乗り換えるものの、寒くてまた車に乗り換えて来たとか。私も自宅まで送ってもらったのですが、途中の国道246号線は、徒歩で帰宅する人の波が絶え間なくありました。私のマンションは停電になることもなく、日常通りの生活が出来ましたが、気になるのは福島のことでした。

45分でやってくるぞ!

 しばらく会社は臨時休業。テレビから流れてくる映像にハラハラしながら、なりゆきを見守るしかありません。そして、14日のテレビの映像を見て、あの時の言葉が過りました。

 私が小学6年生のころ、チェルノブイリ事故が起こりました。その時、父は「あれと同じことが福島の原発で起こったら、放射能は45分でここまでやってくるぞ」と言いました。子どもながら、45分で何ができるか、真剣に考えたことを覚えています。

 「ああ、あの時のことが起こった」とすぐに思いました。私の実家は田村市にあり、福島第一原子力発電所から直線距離で約35km。避難勧告が出された30km圏内ではありませんでしたが、決して安心できる状況ではありません。それから毎日、実家へ電話をし、まずは郡山に住む兄のところへでもいいから避難するように言いました。兄たちからも同様の電話がかかってきたようで、母は「わかってるわよ、こっちは大丈夫だから。もう、こんなに愛されているなんて」と少し嬉しそうにしていました。まあ、なんと呑気な母親なことか。

 実家は、屋根の瓦が数枚落ちたくらいで被害も少なく、普段通りの生活ができているとのことでした。そして、いつもの父らしく、「慌てる乞食はもらいが少ない」といって、様子を見ているようでした。フクイチの状況は一向に良くはなかったものの、風向きや地形から、実家のある辺りは放射線が来にくく、距離が近くとも比較的安全だったことが後でわかりました。

誰も採らないふきのとう

 しばらくは、福島へ向かう新幹線も在来線も当然不通。やっと復旧した4月に主人のいる郡山市へ行きました。震災後の状況を聞くと、数日は断水だったこと、ガソリンスタンドはかなりの行列で1人10ℓの制限がかかったこと、道路が至るところで隆起したり陥没したりしていたとのことでした。

 実家に行き、墓参りに向かうと、墓石は正面が真後ろにくるっと回転していたり、落下していたり、どれだけのパワーだったか、そのあり得ない姿が物語っていました。そして、いつもならみんなこぞって採っているはずのふきのとうが、土手にたくさん咲いていました。

 私は、この風景をみて、悔しさが込み上げてきました。

「放射能がどんなものかは知らない。けど、そいうことだよね。だからみんな採らないんだよね」

とにかく無性に悔しくて、その土手に生えているふきのとうをあらかた採って来て、その晩実家で、天ぷらにして食べました。

 たまたまタイミングが一緒になった兄がふきのとうの天ぷらを見て「大丈夫なの?」と聞いてきました。私は「わかんない」と答えましたが、いつも通り、ガンガン天ぷらにしていきました。

 これで本当に私がガンになったり、奇形になったりするならそれまでだ。でも、この土地で生まれて育った身体、ちょっとくらいの放射線でダメにになる身体なんかじゃない、そう思いたかったんです。(良い子はマネしないでください)

 あれから9年経ちますが、私は今のところ健康です。大丈夫みたいです。もちろん、同じことを友達がしようとしたら、止めていたと思います。ただあの時は、悔しくて、こんなんで負けてたまるかという気持ちだけでした。少しあとになって、怖くなったり、ちょっとだけ後悔もしましたが、多分、今なんでもないので、大丈夫なんだと思います。

(つづく)

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