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rhythmpattern106

StudioMarusan.
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テストです。
今日作ったビート。
こうやって、日々作られては誰に聴かれることもない「音楽未満の音楽」を載せて、所感や解説を書き残しておく、というドキュメンテーション、いわば「音の日記」をやってみてもいいかもしれない、と思ったのです。
今回のビートは、(普段の僕の音楽はどれもそうですが)断続的に、拍節、テンポ感、リズムが変化していく、ということを、キック・スネア・(オープン/クローズド)ハットのシンプルな組み合わせ(+ヴェロシティ)でやっています。
割と、僕はこういったシンプルな音でも、その構成=コンポジションのやり方によっては、全然聴くに堪えると思っているのですが、どうでしょう。
とはいえ、繰り返しをできるだけ作らないようにする、というのは、なかなか難しいことです。「繰り返しを作らない」という行為、これを繰り返さないために、あえて繰り返しを入れる、という操作さえ必要になります。
また、人間が作業している時に使うメモリーにも限界があるでしょう。
大まかな構成とかを作ってから作ったほうがいいのかもしれない、とも思います(それが当たり前なのかもしれませんが、頭から即興的に作ることの価値、というのもあるかもしれない、と思ったりもするのです)。
そしてまた、「リズム」という現象はとても難しいですし、いつでも複雑です。
例えば、キックの位置によるリズムというのがあり、それとは別に、キックのヴェロシティによるリズム、というのがある。そしてまた、キックとスネアの組み合わせのリズムがあり、キックとハットの組み合わせがあり、キックとスネアとハットの組み合わせもまた別にあり、またスネアにもハットにもヴェロシティがあり、それだけでなく、例えばスネアの音とキックの音が区別されるのと同じように、ヴェロシティの中にも区別=レイヤーが発生することがある。例えば、ヴェロシティ=120のキックと、ヴェロシティ=40のキックの音で、違うリズムを刻むということができる。
それでいて、それらが全て「音」=振動であるというレベルにおいては、それらのリズムは混ざりあって一つの大きなリズムを成してもいる。
こんなことを意識しながら音楽を聴いたり作っている人はあまりいないのかもしれませんが、それでも、身体はこうしたリズムとその複雑さに直に共振しているのではないでしょうか。
リズムの語源「リュトモス」には、「かたち」という意味があります。
歌は、(「音量」や「ピッチ」といったパラメータとは本来は関係なく)ある身体を声帯の「かたち」でもって音=リズムとして発し、直接、他の人の身体と共振させる、そんな試みともいえるでしょうか。
身体を必要としつつもそこから逃れ出て別の身体と交歓し、同時にまたその別の身体をもその身体から脱出させる。音楽は、それが一般的な意味での「歌」を含んでいなくても、そんな抽象的な歌=リズムを目指している、あるいは目指すような自律性を持つ限りにおいて、単なる「音」と区別されるのかもしれない。
...たった数十秒の曲を作るだけでも、色々考えることができるものですし、もちろんそれを言葉に還元し尽くすことはできないものですね。

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