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『この世界の片隅に』感想 ※ネタバレあり。

すずさんが、生きる映画。

『この世界の片隅に』観てきました。

ものすごいテンポの良さで圧倒的な情報量とキャラクターの生活や感情と生活の素晴らしさと戦争の最中にいる国、を描ききった素晴らしい傑作でした。

台詞の一つ一つ思い出そうとしたり、心に響いたシーンを思い出す度に涙が出てきてしまうので、まだきちんと言葉にまとめられません。

とにかくスクリーンで観て、としか。

テンポの良い映画、というものについて、考えてみると、観客への想像力について向き合わなければならない、という事が出てくる。

これは、チャッチャカチャッチャカ早いリズムで進む映画が全てテンポが良いのか、というと、全くそういうことではない、ということ。

早いリズムだけで進めばテンポが良いのだ、という勘違いに基づいて、なんだかわからないだけで全く面白くない映画、というのも存在する。

逆に、テンポが早いだけで全く何が起きてるのかわからないが、抜群に面白い映画、というのも確かに存在する。

自分が観た中では『エビデンス 第6地区』という映画がそれでした。

まあ、それはもちろん奇跡的に生まれたもので、例外なのだけれど、大抵においてはテンポが良い映画が全て面白いかというと、そうではないのです。

でも、この作品は面白かった。

それは、テンポの良さを成立させるために、キチンと、観客の想像力に向かい合っているから、という理由なわけです。

単純な話、例えば作品内(『この世界の片隅に』の事ではないです)で、夫婦の間に子供が生まれました。

で、その子供が始めて言葉を発しました(「パパ」とか「ママ」とか)。

で、次のシーンで、その子供が犬を指して「わんわん」と発しました。みたいなシーンは、もう必要ないわけです。(犬が主人公である場合の映画を除いて)

次のシーンでは、子供がランドセル背負って「行ってきます!」というシーンで良いわけです。

もっと言うなら、既に高校生になった子供が「で、母さんは父さんと別れたいと思ってるわけ?」みたいなシーンでも良い。

これは、その作品が何をテーマにしてるのか、で変わってくることだと思います。

重要なのは、何を描くか、であり、そこにどう作品の主題が浮かび上がるか、なのです。

そういう意味でこの映画は完璧でした。

映画を観た後に原作を買って読んだら、原作の時点でもうそれは確立していたので、驚きました。更にいえば、原作であるシーンをまるまるカットしたり、原作よりも、あるシーンをじっくり描いたりすることで、監督の主題の見せ方がより際立ったりもしていました。もちろん、原作では音楽、という要素がないために、そこの見せ方もキチンと完璧に描かれていたと思います。

登場人物が、シーンの一つ一つでキチンと考え方が変わり、それが次のシーンで活かされ、それを観客が何の疑問も抱かずに観られる、という当たり前のことが行われているので、恐ろしくテンポが良い、という体験が出来ました。

これは最近の映画作りでは珍しいことで、何故なら、作品を語る上で必要のないシーンであったり、そのシーンを見せるために不必要な要素を入れたりすることで、鑑賞中に作品に没頭できなくなってしまうことが、最近の映画(特に邦画)では多々あるためです。

一番わかりやすい例で言うと、ある作品を観ていると、物語の展開上、ボロボロになっているはずの主人公の服や顔が、やけに綺麗、ということがあります。

で、「そんなに服が綺麗なのはおかしくねえか」とか「顔に泥の一つもついてねえ」とか思ってしまい、没頭できなくなってしまうことは無いでしょうか?

俳優のイメージを保つために衣装やメイクに、監督以外の何者かの意見が通された場合、それらは起こります。そしてそれは、鑑賞中の集中力を妨げることとなり、そのシーンに集中できなくなってしまい、結果として、「テンポ悪いなあ」に繋がってしまうこととなるのです。

(例外を最近の邦画で言うと、『ヒメアノ~ル』という作品が、驚きました。V6の森田剛くんが主演なのですが、物語が進むごとに本当に汚くなっていき、薄汚れたアパートでコンビニ飯を不味そうに食べ、人をバンバン殺していくのです。道徳観がなくなった人間が、如何に生活に無頓着になっていくか、をキチンと画で見せていて感動しました。殺人した直後にカレーを食う描写など、野蛮! って感じで感動しました。閑話休題。)

『この世界の片隅に』は、主人公のすずさんが徐々に日焼けしていったりすることが、ああ、生きているんだなあ、と思うことにより、作品世界への没頭を手助けしていました。

で、この作品が、いわゆる戦争映画とかお涙頂戴映画とか思われている方には、ハッキリと、そんなジャンル分けできるような作品ではなく、映画を観る楽しさに溢れた傑作だ、と言うことができます。

戦争映画ではあります(作品の時代背景が戦時中であるため)が、いわゆる反戦映画ではありません。

と、いうのも、この映画の中では登場人物の誰ひとりとして、戦争は良くない! 止めるべきだ! とは、言わないからです。

当時の日本で、そんなこと言おうものなら、非国民として粛清対象なわけです。

だから、登場人物の誰もが、戦争は嫌だなあ、とは内心思いつつも、国を挙げての戦いに、希望や、その先の生活を夢見ているのです。

でも、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は突然終わります。

それは、当時生きてきた人たちのこれまでの生活を、いきなり横合いから掻っ攫って剥奪することなのです。

そのことに、登場人物は、果てしない無力感を感じ、絶望するのです。

ああ、自分は、何も出来ないのだ。と。

国は、生活を、右手を、大事な人を、笑顔を、全て奪っていっただけじゃないか。

自分は、どんだけひどい目にあおうとも、自分の生活を全うしようとしていて、そのためにどんだけ酷い未来であろうとも、その中で未来を描いていたのに、それすらも根こそぎ奪ってしまうのか、と。

明日を想うことすら、奪うのか、と。

でも、そんな中でも、生活は続く。

で、あるなら、せめて笑顔で。すべてを奪われ、マイナスになったけれども、生きてはいるのだ。

すずさんは、そんな記憶の器、笑顔の器として前を向いていく。

それは全てが希望や優しさだけじゃなく、憎しみや恨み、後悔や殺意なんかも下に潜めているのではないだろうか。

しかし、すべてを受け入れて前を向いて生きていく人間というのは、恐ろしいほどの絶望を腹の底に飲み込んだ人なのだ。

原作でラスト付近に、すずさんが米兵に子供と間違われ、チョコレートを貰ったことを受け、径子さんが「ええ米兵さんでよかったものの」という。

そのくらい、一つ目を横に向ければ、この世は酷い世界になってしまっているのだ。

この映画が反戦映画ではないのは、ただの、史実だからだ。

本当に、この国で70年前に起こっていたことを、描いているにすぎない。

これは、たかだか70年前にあった価値観なのだ。

で、それを観た我々が、どう思うのか? それこそが大切なわけです。

戦争を体験した人の声を聴くことはこれから先どんどん少なくなり、聞きたくないものを拒否する人たちの耳にはどんどん届かなくなり、やがて、戦争について語る人は少数派になるかもしれない。

少数派は異端として扱われ、やがて考えが異なる人達とは争わなければならない、という原始的な思想が復活するかもしれない。

そんな「もしも」に、「そんな馬鹿な」と思わずに、想像力を駆使して考えて、立ち向かわなければ、何かは確実に失われてしまうし、その時は、文化の敗北ですよ。

二度三度と繰り返し観て一つ一つのシーンを何度も味いつくしたくなる!

上映中、とにかく物語世界と演出の素晴らしさとすずさんの可愛らしさに打ちのめされていたんだけど、最後の最後スタッフロール終わり、さらにその最後の最後、すずさんの右手がこちらへ振られた時、涙腺決壊した。

そりゃ上映後に拍手も出るわ。

観終わった後「良かったね!」とは言えず、かといって「哀しかったね」とも違う。「楽しかったね!」は当たってるのだが、それだけでは言葉も気持ちも足りない気がするという、本当に一言で表せない映画。

「感動した」とか「泣ける」でもない。

色んな感情が一気に渦巻くのは、それが、すずさん、という一人の人間の生活と生き様を描いていたから。

一人の人間の生き様なんか、一言で言い表せなくて当然なのだ。

間違い無いのは二時間、映画を観ている! という快感に浸れること!


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