見出し画像

アイズ・ワイド・シャット

おっぱいが大きいだけの子どもみたいな女から食事の誘いがきた。一度しか会ったことのない男にメゾンカカオとイソップのクレンジングを送るような女は自己肯定感が低く依存性が高い。そんなことは心理学を学んでいなくても分かる。地雷系と呼ぶには地味で危うさがない。

ときめかない、という理由で辞退した。

毎朝、午前3時に目が覚める。
自律神経だけで生活しているせいだ。

目覚めてまず最初に考えることは、これは何というかもう本当にキモくてすまんのだけど、ときめきたいなあという少女の寝言のようなものだ。ときめきを忘れた肉体は手足の先から少しずつ溶けていけばいい。

少し前まで後期高齢者と障がい者とアジア人しかいないパン工場で働いていた。昭和30年代に建てられた当時のまま増改築をほとんどせずに運用していて、建物全体に沁み込んだ雨水がいつもどこかから湧き出ている有様だった。糖と脂質が豊富な製菓材料で育ったネズミはウサギと見まがうほど立派で、気のせいだと思うがほのかに甘い香りがした。

工場には一人だけ40代の日本人女性がいた。全身を覆う作業着とマスクのせいで一度も顔を見たことがない。目元と体形と声の抑揚だけで判断するにきれいな女性だと思う。彼女はシングルマザーで、そこの給料だけで暮らせるはずがなく、仕事を掛け持ちしているか実家に身を寄せているか恋人がいるはずだ。

本来交換されるはずの視覚情報のほとんどが隠されていることで彼女に対する想像は無限の広がりを見せていた。毎日のように顔を合わせて会話をして包餡作業に勤しんで、互いにパーソナルな部分まで共有しているのに容姿だけ知らないという、この上なく淫らな演出が未だに胸をときめかせる。

彼女の顔を見たくて見たくて見たくてたまらなかったが、やめておいた。
アイズ・ワイド・シャット。

芽生えたばかりの少年少女の戸惑いの如く、それはもうときめきとしか表しようのない日焼け痕のような痛痒さが今でも残っている。あの時、もし踏み込んで男女の関係になっていたらこれほどのときめきは得られなかったであろう。連絡先も住んでいる場所も知らないのでもう二度と会うことはないだろう。これから先、もし街中ですれ違ってもお互い気付かないだろう。あの人もしかしたら…と思っても、ほんの短い間昔を思い出すだけだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?