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ドッペルゲンガーをこえて

夏といえばホラー映画ですか?

私の場合○○といえばホラー映画、の○○にあたる季節はありません。
いつだってみれない。

でも、話の展開はかなり気になるから、予告をみたホラー映画についてはネットでネタバレ記事を読みあさるタイプです。


先日、友達と話していたら「ドッペルゲンガー」というワードが出てきて、それは私に『Us』という映画(のネタバレを読んだこと)を思い出させました。

その後、どっぺるげんがーがどうしても頭からはなれず、また記事を探して読んだわけです。

本編はぜったいみない


『Us』は、アメリカが舞台。地下にすむクローン人間が地上にでてきて、人間に対してクーデターを起こす様を描いたホラー映画。

ドッペルゲンガーというのは、クローン人間のことを指しています。地上の人間のそっくりさん。

どうせみないだろうからネタバレしますが、主人公4人家族は彼らのドッペルゲンガーとの死闘に打ち勝つものの、実は母親がドッペルゲンガーに入れ替わってることが最後にわかるのです。

つまり、地上の人間のなかにドッペルゲンガーが混ざりこんでいる、という怖い話。

…こわい


予告とネタバレで一抹のホラー欲をみたした私は、さっさと恐怖画像からはなれ、派生した疑問に目をむけることにしました。

それはすなわち、「私たちは何をもって相手をその人として認識しているのか」ということ。


『Us』で母親がドッペルゲンガーと入れ替わっていたのは、実は何十年もまえのこと。子どものときにクローンが本物を地下に追いやり、大人になるまで人間として生きていました。

両親も周囲の友達も、彼女がクローン人間だとずっと気づかなかったということです。

…それってもはや、本物とドッペルゲンガーの違いはないに等しい気がする。


もとの問いに戻ると、この世界で私たちは何をもって友人や恋人を本人として認識しているのか、気になったのです。

容姿?しぐさ?使う言葉のセンス?

要素はたくさんあって、どれをとるかはきっと人によって違う。
ただ、その選択の根底にあるのは、「期待」なるものではないかと思うのです。


このまえ、バスで天神に向かっているときに何とはなしに再生してみた水曜日のカンパネラ。「エジソン」がツボに入りよく聴いていますが、もうひとつ好きな曲に「織姫」があります。

その名の通り、年に1度の再会をはたす2人を歌っている曲。

3分もないので聴いてもらったらすぐわかりますが、ギャルになった織姫をみて、彦星は「慎ましやかだったあなたはどこに行ってしまわれたのでしょう」といいます。

曲ではそれ以上の彦星の感想はありません。
でも、この無垢な青年が好きだったのはおしとやかで無口な少女であって、チルラッパーネキじゃないことは確か。


同じように、笑顔がチャームポイントと思っていたパートナーが他の人に心奪われて口角ひとつ動かさなくなったら、あなたは「人が変わった」と思うでしょう。

4年ぶりにあったヲタク仲間がチェックシャツを卒業してTOMMYを着ていたら、きっと「誰おまえ」となる。

きみはドナルド?


相手に対して抱いていた期待が裏切られたとき、私たちは「出た!ドッペルゲンガー!」と思うようです。

ま、そこまでは思わないにしても、自分が大事にしていたポイントを損なった相手は、自分にとってその人がその人である必要性がぐらついてしまうものですよね。


でも、期待なんていうこちら側が用意したせまい枠に外れたからといって、相手がもつ魅力が失われてるわけじゃない。

なんか違うなと思っても、その違和感をこえてとことんつきあっていこうと思える相手が、友人であり恋人なのかなーと思います。


論点がずれたので寝ます。
本編をみてたらもうちょっと深く筋のある話ができたかもしれないですね。(一生みれない)

これ、トミー「フィルガー」だと思ってました。
ヒルフィガーとかきいてない。


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