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私が出会った短歌たちよ

短歌との出会いは退屈なことが多い。ように思う。

というのも、幼児期に短歌を読むことはまあ無く、大体が義務教育の中で、国語の教科書に広々と並んでいる姿を見るのが出会いになるのではないだろうか。
私はそうだった。
そして、それらの言葉は授業の1コマとして収まり、教科書を閉じればすっかり忘れてしまうものであった。

一番最初に好きになった歌は石川啄木だ。
教科書ではなく、小説の中。
たしか中学生の時だったが、思春期の少し仄暗いものに惹かれる年頃だった自分に、それは強烈な憧れを与えた。

かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど

ちょうどその頃、携帯小説が流行りに流行っており、中学校という狭い世界では『恋空』を読んでいないものは仲間に非らずといわんばかりの扱いだった。
『恋空』はなんとかついていったものの、次々発売されて大ヒットとなる携帯小説に、というよりは最新の携帯小説を持っている人が強く、携帯小説に(自分が実体験としてあるかはともかく)いかに共感して人前でボロボロ泣けるかを求められたあの狭い世界の中で、私はすっかり携帯小説という存在が嫌いになってしまった。
己の心情をゼロから百まで書き綴る携帯小説と対照に、31文字でしか語られない短歌という存在が、それを取り扱う小説という存在が、私にとっては同級生に踏み躙られることのない安息の地になったのだ。

しかし、今にして思えば携帯小説というものは面白い文化の一つだけど、中学生の群れにはあれは刺激的すぎたのかもしれない。

閑話休題。

とはいえ恋に恋する少女時代。
恋心を表す短歌が好きだった私も一丁前に少女だったのだなあと思う。
伝えられた言葉よりも伝えられなかった言葉の方がずっと記憶に残るなんて、切ないながらにロマンティックに感じた。
今となっては、言わなかった後悔より言った後悔の方がずっとましだ!という考えになり、「言ひそびれたる大切の言葉」というものはすっかり持たなくなった。20年というのは人を変えるには十分な時間なのだ。

大人になった今は、同小説で示されていたこちらの歌の方が、思い当たるところも多く、心に染み入るものがあるなあというところである。

人といふ人のこころに一人づつ囚人がゐてうめくかなしさ

次の短歌との出会いは大学生の時。
東京に出た私は、上に記載の小説の著者・北村薫さんが他大学で授業をもつとの情報を聞きつけて、授業に潜りに行った。
北村さんの生の声が聞けたという興奮と、他大学に潜り込むという後ろめたさで結局1,2回で通うのをやめてしまったことで、授業の内容そのものは残念ながらあまり覚えていない。
その授業の中で紹介されていた歌集が、私にとっての2回目の短歌との接点となった。

表紙とタイトルの可愛さと、何よりあの北村さんが勧めた本!ということで期待を胸に読んだこの歌集は、実は大学生の頃は全くピンとこなかった。
生々しい単語、人生背景が全く違う作者による言葉群はある種のグロテスクを感じさせ、短歌とはきれいで曖昧な世界を詠むものだとばかり思っていた私には、その乖離が受け止められなかったのだ。
このタイミングで俵万智さんの『サラダ記念日』『チョコレート革命』も読んでみたが、感想は同じだった。この時、「口語短歌」というジャンルを初めて知った。

ここでしばらく短歌から離れてしまうのだが、先日久々に『たんぽるぽる』を読んでみたところ、過去に感じた生々しさは随分薄れていた。
相変わらずわからない歌は多いけれど、年を重ねることで、自分と全く違う生き方、というものに強い反発を感じなくなったのかもしれない。

たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は

この歌は、読み返して「ああ、たしかに…」となった一句。
大学生の頃はタイトルの「たんぽるぽる」という可愛い五感に惹かれて買ったのに、肝心な「たんぽるぽる」が、かわいい歌を期待していたのに、全くわからない歌に使われていたことに落胆してしまったことを覚えている。

私は結婚を機に姓を変えたが、職場では引き続き旧姓を使っていた。
数年後の転職の際、まあ離婚することもないだろうと職場でも新姓にしたのだが、最初は名前を呼ばれても全く反応できず、しばらくは自分の外側と内側が少しズレているような感覚が続いた。
それまでは役所や病院くらいでしか新姓で呼ばれなかったため、日常の中の小さなイベント感を楽しんでいたのだが、新姓が日常に台頭してきて、周囲の人も新姓を当たり前のものとして呼ぶ一方で、自分にとってはまだ当たり前にはなっていない環境にパラレルワールドのようなものを感じた。

『たんぽるぽる』の後、しばらくの間があき、久々に歌集を手に取ったのはコロナ禍に入ってからになった。
『ホスト万葉集』は、たしか新聞で紹介されていて知った気がする。
この頃になると、ストレートに紡がれる言葉が面白くなり、また、ホストと姫の関係をうたう歌が時にはアイドルとヲタクの関係に重なった。
知らない世界を覗くつもりで読んだ歌集が、予想外に強い共感を呼び覚ました。

一瞬の笑顔が見たくて入れちゃった。まるで真夏の花火のように

この歌で「入れ」ているのはシャンパンだが、特典会を買い増ししている自分の姿が思い浮かぶ。
特典会を知らなかった頃は好きな子と対面でお話ししたいなんて気持ち知らなかったのに、今や「何回行くか」に思考がすり替わってしまったのはヲタクの性である。


その後は短歌を読む頻度が増えた気がする。
歌集を読んで泣くことがあるのだ、と教えられたのは、自分と同年代の女性の作品。
ちなみに書肆侃侃房って出版社の存在はずっと知っていたけれど、本を買ったのはようやく初めてだ。

お父さん、お元気ですか フィリピンの女の乳首は何色ですか

Twitterで流れてきたこの短歌のパンチと、タイトル『老人ホームで死ぬほどモテたい』のパンチのダブルパンチにやられて、この本を買うために三省堂を彷徨った。

学校や地元である地方都市に閉塞感を感じて、東京に出てくるという姿が、自分そのままの姿と重なり驚いた。(安易に人の人生を借りるのは良くないと思いつつも)
今までは歌集一冊の中に共感できる歌、好きだと思う歌が1,2つあるかなという状態だが、この歌集については共感の連続で、気づけばかつての鬱屈とした気持ちやまだ折り合えていないことなどが次々と自分を襲ってくる。

修二と彰、どっちも嫌いと答えたらなんかわたしだけ重力おかしい

KAT-TUNのメンバーの名前を必死に覚えた中学生時代を思い出した。嵐はあきらめた。

天国では意志がないのがしあわせ ここは天国なのかもしれない

何かへの復讐として一粒のマカロン買ったりしていて可笑しい

じゅげむじゅげむごこうのすりきれ生きることまだ諦めてなくてウケるね

ヨドバシのおもちゃ売り場で泣いている原色だったころのわたしたち

残念なことに私は作者ほどまだ地元を受け入れられていないどころか、年々地元帰りたくない病が加速する一方である。
姉がかつてくれた自己啓発本に「20代のうちに親と和解しよう!」と書いてあって、くそくらえ、と思った記憶もまだ新しい。


そして俺らのひかるん!となったアイドル歌会。書籍化されたので即日購入。「満を持して」って言葉がこれほど似合う本もなかなかないのでは。

ひかるん沼に頭からダイブした2首。

もし君が 繋いだ手から 僕の寿命 吸い取っていても それでもいいよ

ステージでキラキラ輝く君たちをスノードームに閉じ込めたいな

後者の歌は、特に選者の笹公人さんもお気に入りのようで、他の場所でもおすすめされているのを何度か見かけた。

また、スノードームの歌は1月の新年会の回で披露されたのだが、奇しくも前月12月のばってん少女隊・わた恋ライブにてりるあちゃんをはじめとしたメンバーがそれぞれ感情をテーマに踊る姿を見て、「この姿、スノードームとかでグッズ化してくれないかなあ」と思ったばかりだったため、ひかるんと「脳みそおそろい」(※ひかるん語)なことにとても驚いたのを覚えている。
もしくは、私の脳みそがきっとじわじわとひかるんに侵食されていたのだろう。

歌自体しか知らなかったものを講評をあわせて読むことができたり、配信で見たものを改めて読み直したり。今までの歌集とは違う読み方が新鮮だった。
そして、アイドルというパワー溢れる存在が紡ぐ歌は圧倒されるものがあったり、明るくて元気な面とはまた違う側面を見ることができたりと、アイドルを多面的に捉えることができるよい機会である。

円陣をもう組むことのないグループに あけおめLINE送るべきかな

特にこちらの歌。播磨が読んだものだが、所属グループが解散してソロとしてのアイドル活動を続けている彼女。私たちからは明るい側面しか見えなかったけど、そりゃあ悲しかったりやるせない気持ちもあったよなあ、と思わせつつもその気持ちを播磨節の明るさで包んでいて、意外な面を見せつつも播磨というひとりの人間が見事に表現された歌だと感じた。


31文字という短さに込められた感情は、ともすると普通の言葉よりも密度が濃い。
そんな言葉たちが沢山収められた歌集というものは、一冊読むと気持ちを受け止めきれずぐったりしてしまうことが多い。
でも、数ヶ月、数年かけて咀嚼をし終わると、またその言葉の群れにまた向かってみたくなってしまう。次はどのような歌集を読みたくなるのだろう。
あと、サラダ記念日も今読み返せば面白いのかなとも🥗


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