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私とボーと朧げな境目と〜ボーはおそれている〜

アリ・アスター監督という存在を知らぬまま生きていきたかった一方で、彼の作品を一度見てしまうとそれ以降の人生で「彼の新作を見ない」という選択はもはやできなくなる。
己の意志判断を容易くも覆われてしまうこの感覚は、人生をそこそこ生きてきたもののおそらく初めて味わう類のものであり戸惑っている。

とはいえ、「上映時間179分」という表記に慄きつつも、約3時間を彼の世界に浸らせると決めたのは紛れもなく自分の意思なのだ。


物語構造 即ち アリ・アスター監督の箱庭

「ボーはおそれている」はまず冒頭の不安や強迫性の表現の解像度が高い。その上、自分が持っている不安と見事なまでにシンクロしてしまい、そこから先ではボーの身に起こることが自分事のように感じ取れてしまう。
喫緊で必要な時に蛇口から出てこない水、手をつけてしまった商品を購入したいのにエラーが出るクレジットカード、鍵穴に挿しっぱなしで少し放置したらなくなってしまった鍵…
潜在的または顕在的に「もしも起こったらどうしよう」と恐れている事象が立て続けに起こることで、己の持つ恐れが嫌な形で実証されてしまう。
一方で、鍵さえかけてしまえばどんなに脆そうなガラス戸でも扉でも、そこから先には危険人物は踏み入ってこない、というなんとも不安定な心理的安全性も表現されている。
そしてその直後に、「鍵さえかけていれば危険人物は入ってこない」ので、「鍵をかけなかった結果危険人物が大勢押し寄せて自分の居場所が奪われる」という表裏一体の脆さが実践されるのだ。
最悪すぎる!

私は時おり、「どんなに頑張っても鍵がかからない夢」や「鍵をかけたと思ったら扉が窓枠しかなくて鍵の意味を為さない夢」というのを見るのだが、まさかその夢と同質の恐怖を映像として具現化されて見る日が来るとは…

しかし、その安全の象徴のように使われていたガラス戸は中盤以降にばんばん割られていく。
時にはボーが退役軍人のジーブスから逃れるため、時にはジーブスが巨大ペニス怪獣の父親のいる屋根裏部屋に乗り込むため、時にはボーがママの息の根を止めようとしてママが倒れ込んだため…
これが所謂成長譚であったなら、その後はポジティブな展開が待ち受けているだろうが、アリ・アスター監督の箱庭の中で続く展開は更なる地獄一択である。
というよりも、展開される事象があまりにも辛過ぎて、この行為の意味は?など考えることすらできず、ただただ監督に身を任せることしかできない。

終盤でママによる支配下であることが露わになり、そこで物語構造としてようやく箱の外側に出たかと思いきや、全くそんなことはない。
その先にもうひと山ふた山とまだ地獄が待ち受けている。
(ボーが洞窟に入っていく行為で、「子宮の中に戻っていきたいんだね…やれやれようやく終わる…」と思ってからのもうひと山には勘弁してくれ!と言いたくなった。)

劇中では現実と想像、現実と演出がごちゃ混ぜになって進んでいく。
ママとの対峙ののちも、「でもあれも演出なの?」「どこまでが本当なの?」と疑問が尽きないが、もはや愚問。ボーにとっては全てが現実なのだから。

そして、初恋の人・エイレンがニュースの中でママの会社の従業員として登場した瞬間にボーが盛大に吐瀉をしたシーン。
めっっちゃ分かる!!と共感が強すぎた。
自分の中で印象が強い人が唐突に眼前に現れたとき、嬉しいとか戸惑いとかを越える勢いの衝撃で臓腑がぎゅっとうごめく感覚。(私はこれをピンクの小ゲロ現象と呼んでいる。)
ボーとはどこまでもシンクロしてしまう。

母親との在り方 結局答えはまだない

見事なまでの非成長譚。
ママがボーの思考の全てをへし折っていく様は、まさに幼少期の追体験タイムであった。
留守電のメッセージに残されているのは、一方的かつ執拗な「愛している」。
エイレンを言葉上では褒めているけれど、同時にボーとの関与を否定する発言。(「溌剌としたあの子には勇敢な男の子が似合う」…)
ボーが抵抗した途端にはじまる糾弾。「ママは与えてばかり、あなたは私から搾取してばかり!」という発言は、ボーを通して私自身に向けて言われているとしか思わずにはいられない。

思考がスポイルされることで自分の意思で判断ができなくなるのも分かるし、「ママがしてほしいこと」を正解としてしまう考え方もすっっごく分かる。
マンガ「トクサツガガガ」が好きなのだが、こちらも母親との関係性が一つの大きいテーマとして描かれている。
その中の幼少期の回想として、母親からの誕生日プレゼントを選ぶ際に「自分がほしいもの」ではなく「母親が自分に与えたいもの」の正解を選ぶことが必要だった、というエピソードがある。
子供は母親=絶対的に正しい存在だと思いがちだが、
①その考えを母親自体が否定する
②母親も子供もその考えが正しいと思う
③母親は正解だと思い続けるが、子供が違うと反発する
…などとその先はいくつかのパターンに分岐する。
ガガガは③でボーは②で、じゃあ私は…?などとつらつら考えてしまうが、とにかく親との確執や摩擦を描いた物語への共感とそれ故の受け取り方の必要以上の解像度の高さに、気付いた瞬間からげっそりしてしまう。
(一緒に鑑賞した夫がそこまでダメージを受けていないということに驚いた。)

親離れはタイミングを間違えると死だし、子離れされない中で親離れをしようとすると待ち受けるのも死である。ようやく親が子離れをする時、それ即ち子の死なのだ。
という、なんの参考にもならない、ああやっぱりそうだよね…という結末を以てこの物語は終わる。
エンドロールの無音の中、客席では誰一人咳払いすらしない静寂が広がったのは初めての体験だった。

ボーを通して自分が母親に対して持っているわだかまりを久々に表出させてしまったようで、終演後もしばらくどんよりした気持ちを引きずってしまった。
その日の深夜に町山智浩さんの解説を聞き、「ユダヤ文学」としての本作という視点を得たことで、なんとか映画と距離を置いて考えることができるようになってこのように感想を書いている。

アリ・アスター監督に感情を弄ばれてしまうことに悔しさを噛み締めつつも、彼が作る映画はやっぱりこれからも見てしまうんだろうな…という諦めと暗い喜びを持ちながら、数日経った今日もぼんやりとボーのことを考えている。


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