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君たちはどう生きるか

やっとこさ見た。
宮崎駿氏の作品は「風立ちぬ」が好きで好きで好きすぎるがゆえ、あらすじは分からないし感想もふんわりしたものしか聞こえてこない中、「この作品で駿さんにがっかりしちゃったら嫌だなあ…」と何とも傲慢な気持ちを持ちながら足踏みしていた数ヶ月。
伊集院光氏がラジオで奥さまと一緒に鑑賞した際の話に触れ、「奥さんが「これは生前葬なの、人のお葬式に良いとか悪いとか言わないでしょ、そういうものなの」という感想を言っていた」との言葉に背中を押されて、そこから更に少し間が空いてようやく映画館にたどり着いたのだった。

前述の前提が自分の中にあったため、見ている最中の感想としては、駿の回顧録を見ている気分だった。
しかし、映画が終わったとき、この作品の異世界冒険による冒険成長譚としての枠組みに気づき、こんなにも美しい成長譚を見れたことに感動した。

折々のシーンで今までのジブリ映画が思い起こされる。
お屋敷の中にある深い森は「となりのトトロ」や「もののけ姫」で登場した森を思い出し(クレジットで男鹿さんの名前が流れてやっぱり!と興奮した)、子供が小柄な者しか通れない塔の入り口にもトトロに繋がる森の小道を思い出す。
大量のカエルや魚やペリカンが眞人を覆い尽くすときは「崖の上のポニョ」の海の姿が重なった。
塔の中の広間は「ハウルの動く城」の荒地の魔女のお城のようであり、下の世界で夏子が眠る部屋の入り口のカーテンは「千と千尋の神隠し」の坊の子供部屋を彷彿とさせる。
キリコの家とヒミとの食事シーンはそれぞれ「魔女の宅急便」のウルスラとおソノさんが思い起こされた。

このような細かいところに今までのジブリ作品の回想に思いを馳せつつ、一方で大きな作りとしては「はてしない物語」「ナルニア国物語」に連なる冒険して成長する少年の物語を形どっている美しさには溜息があふれでてしまう。
日本の映画だと数年前の「バースデーワンダーランド」もすっごく好きだったが、宮崎駿氏による冒険成長譚が作られたことに喜びが溢れ出て止まらない。見たいことに気づいてなかったけど、見たことでこれを待ってた!と気付く感じ。
時には本、時にはクローゼット、時には地下室の扉…現実の生活にひっそりとある入り口から物語が始まるのだ。

10年間どっぷり風立ちぬラバーとして生きていたためすっかり忘れていたが、そういえばジブリはホラー要素が強いんだった。
おどろおどろしいというよりも、人間が活動する中でのグロテスクさを突きつけられるような。
眞人を覆い尽くす大量のカエルやペリカン、そそのかす大量の魚のユーモアと恐怖の絶妙なバランス。同じ生き物が大量にいるってなんであんなに怖いんだろう。
下の世界ではインコたちが生活をしていて、後ろ手に包丁や斧を持ちながら眞人を招く姿は分かりやすく怖くてゾッとしてしまった。(一方で野菜でケーキを作る愛らしさもある。)塔の扉から現実世界に飛び出ると、普通サイズのインコになるというのも、境界線でインコと人間の力関係が逆転している異世界譚が強く出ていて、制御できないものや突然ひっくり返ることの怖さが感じ取れた。
いちばん怖かったのは、下の世界のキリコが持つ6人のおばあさん仲間たちの人形。眞人を囲って「守っているんだよ」という呪術性もさることながら、キリコが笑うのに連動して人形がカタカタ震える表現が、きっと表現意図はあるんだろうけど読み取りきれず、また過去に読んだ小説に出てきた村中の木彫仏がケタケタ笑い出す情景を思い出してしまい、得体の知れない怖さがあった。
(宮部みゆき氏の「三島屋変調百物語」である。)

物語の構成としても美しいとしか言いようがない。寓話や異世界譚としての決まり事がきめ細やかにしっかり実行されているのである。
下の世界へと続く塔の入り口には決して理性で生きる大人は入れない。
子供(眞人、ヒミ)、妖精(青鷺)、子を内包する者(夏子)、一度訪れたことがある者(キリコ)だけがその先に進み、軍事工場を指揮する父親や竹箒を持って人探しをするじいや、ばあやたちは近づいても決して入ろうとはしない、もしくは入れない。
若かりし頃のキリコはしっかりと導く者としての役割を果たす。神聖の象徴である火で敵を追い払ったり、帰る際の目印として振る姿などはまさしく寓話的である。
冒頭の母親がいる病院で火事が起きた際の「僕も行く」と、疎開先で夏子が行方不明になり捜索する際の「僕も行く」。同じセリフで同じ行動をとったあとのそれぞれの違う結果という展開にゾワゾワした。
東京での浴衣×畳の寝床に対する、疎開先のお屋敷での浴衣×洋室のベットという不一致感が、新しい環境に馴染めず違和感を抱く眞人の心情の比喩のように感じ取れるなど、生みの母と新しい母の対比を浮かび出しているように捉えられた。
現実世界に戻ってきた時の青鷺のセリフ「何でお前は覚えているんだ?」に対する、異界のものを持ち帰っていたというアンサーも異世界譚の決まり事の儚さと美しさが際立った。
人形のキリコは現実のキリコに戻り、墓の石(青鷺が捨てたんだっけ?)も手放した時、眞人は下の世界を忘れてしまうんだろうなあ、と思うと少し切ない。
下の世界からの出口が眞人とヒミで違い、自分の手で扉を開けたという行為が、母との決別そのものであり胸が熱くなった。

フード理論の考え方はかつて本を読んでからとても好きで、映画で食べ物が出てくるとついつい注目してしまう。
お屋敷に到着した日、夏子さんが入れたお茶を飲まなかった眞人。歩み寄りたい夏子さんと歩み寄れない眞人の対比だった。
お屋敷のばあやたちとの食事は「まずい」と言いつつも食べ切っている。この後にキリコとの交流が始まるのだ。
下の世界でのキリコが用意したご飯は食べたんだっけか…?
最たる表現がヒミが差し出したジャムの塗られたパンである。「おいしい!」と鼻までジャムまみれになって食べる眞人の心の距離は去ることながら、作品を通して母親が作る食事を唯一楽しそうに食べる姿はなんとも寂しさを感じてしまった。
(きっと作品の外で、その後眞人は夏子さんのご飯もおいしく食べているのだと信じているが。)

「風立ちぬ」は美しい純愛の物語だったが、「君たちはどう生きるか」は美しい成長譚であった。
この作品をリアルタイムで見ることのできる喜びたるや。
パンフレットを注文した直後にガイドブック発売が発表された悲しみなど微々たるものである。

しばらく胸の中にこの物語を揺蕩わせながら日々を暮らしていくのであろう。

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