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【ハニワット】血と泥の祈り、古代戦士ハニワットが面白かった!

埴輪対土偶

※本稿には多分にアクションで連載されている漫画『古代戦士ハニワット』7巻までのネタバレを含みます、ご了承ください※


最近『古代戦士ハニワット』という漫画作品にハマってます。実はもう打ちきりが決まってる作品みたいなのですが、読んでみたらとても面白かった。作者は漫画『鈴木先生』の武富健治先生。有名な作品の作者だったので驚きましたが、こんなアクションバトル漫画を描いていたとは、という気持ちです。

ハニワットは簡単にご紹介すると埴輪が土偶と戦う話です。埴輪の創作作品と言えばはにゃふにゃしてる教育的なキャラしか知らなかったのですが、確かに埴輪はかっこいい造形をしています。

埴輪は元々古墳の装飾用の人形らしいので人間的な武人のようなかっこいい形が多いです。あとは少し気の抜けた造形も多いですが、どちらにしろ人間的に諒解可能な感情を伴うデザインになっています。

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作品をみたときに呼び起こされるであろう感情が現代人にも通じるところがあるのです。喜んでいるんだなぁとか、きりッと勇ましいなぁとか。たぶん古代の人もぼくらが感じるのに似た感情でこれをつくって置いたのだと想像できます。

対して土偶はなんかちょっとよくわかりません。

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歴史も土偶の方が古いらしくて超古代という感じもしますが、全くよくわからないニュアンスが漂っています。でも初めからこういう風ではなく、最初期の土偶は素朴な感じだったらしいのですが、どんどん祈りが高度化していったという事でしょうか。または高度な祈りを中心にする社会において作られた土偶は抽象的な姿になっていったのかもしれません。

超有名な遮光器土偶とかみるとこの形の意味、何のことなのか我々にはわからんが、昔の人はわかったんだろうけどなーという感じです。現代と土偶が作られて使われていた超古代は文化的にも精神社会的にも隔たりが大きすぎて、意味が良くわからなくなっています。そもそもなんのために作ったのかすら定かではないのが土偶です。

そしてハニワットという作品の面白いところはこの「埴輪と土偶に感じる親近感の距離」がそのまま作品に構造としていかされている点です。少なくともぼくはそう感じて感服しました。

ヒーローもののガワを被った...

『ハニワット』では現代日本で土偶のような怪人というかロボットのような「ドグーン(嗤尤)」が突如現れ、街を荒らしたり人里に出てきて破壊や殺戮を行うので、古代より伝わる秘密神社的な人らが「ハニワット」というパワードスーツのような装備に魂を乗り移らせて戦うという形になっています。

ここまで書くと良くあるスーパーヒーローもので題材を「埴輪と土偶」にしただけだとも見えますが『ハニワット』の本質はそういう話とも少し違います。なぜなら、本来悪のヴィランを倒すはずのヒーローが全く歯が立たずにボロボロと負けていくのです。ヒーローである「ハニワット」は日本各地の有名古代神社が秘匿していた「ドグーン」との決戦兵器みたいな設定で、ハニワットの操縦者になるためには人権を無視した訓練(実際に戸籍すら与えられず訓練や補佐させられる者もいる)を幼い頃より徹底的に仕込まれて嗤尤ことドグーンとの一世一代の大勝負の檜舞台に備えているはずなのにボロボロと負けるのです。

普通ならそんな陰鬱な漫画は読まないほうなのですが、武富先生の職人芸のような精巧な人間ドラマの構築技術によって物語世界にぐいぐい引き寄せられながら、読んでしまいます。

ハニワットの操縦者、埴輪徒(埴輪徒という言葉はハニワットそのものにも使われているようだが)の微細なドラマはこれでもかというほど丁寧にページ数をかけて語られています。誰もが人間らしい人生を送り、恋や仕事をしつつ、一族や人間社会のために青春と情熱をかけてハニワットの操縦者としての訓練を受けても......圧倒的にドグーンの方が基本的には強いのです!埴輪徒は戦闘の後遺症で半身不随になるくらいならまだいい方で、簡単に死んでしまうのです。

埴輪徒達は決して人間社会では器用な性格の持ち主でないこともドラマに言いようのない感情を呼び起こします。作中でも仮具土(普通の人間による埴輪徒の操縦者または機体そのものような意味で使われる)の埴輪徒には小綺麗な人間関係に収まらないくらいの人間の方がいいという設定があるので、自然と問題のある不器用な性格の若者たちが戦う話になります。

そんな若者たちがなけなしの社会的な幸福を全てなげうって訓練に訓練を重ねて出撃すると、なに考えてんだかよくわからない顔のドグーンの素朴な攻撃1発か2発を躱せなくて致命傷を負って惨敗。ハニワットを戦場で言うと兵士などのフロントオフィサーだとすると、バックオフィサーであるサポートの巫女隊や仮具土の埴輪徒と心を通わせた「主巫女(アチメ)」という特別な巫女も、陣頭指揮をとる現場の部隊長のような権禰宜もめちゃくちゃ損害を受けたり最悪死んだりします。

また嗤尤が現れた地元の住人も損害を受けまくりますし、嗤尤を取り囲む普通の特殊部隊隊員もボロボロとやられます。もうしっちゃかめっちゃか。

なんなんじゃこの漫画は(笑)

というのが読んだはじめの印象でした。とにかく残酷描写が多いのですが、しかしそこになんとも言えない規則性というか、ニュアンスを感じていたのです。単なるパニック漫画の見せ場としての軽薄な残酷描写ではなく、何らかの構造にしたがった描写がなされているように感じました。

ハニワットはアクションヒーローもののガワを被ったヒューマンドラマ、いや、埴輪の皮を被った人間と自然との物語であることに気がついたのです。

それは二度目に嗤尤による犠牲者をみていったときにかなりはっきり感じることが出来ました。今回はドグーンこと、嗤尤の犠牲者をおっていくことで物語に通鐵している構造の一端をみていこうと思います。(以下かなりのネタバレです)

ドグーンによる初めの犠牲者

一巻ではじめのドグーンが登場してから象徴的に語られる数字があります。

「奴のせいでこの27時間に33人が死んでる」

作中でお話がいったん過去にいって、現在の時間軸に戻ってきたときにメルクマールとしても都合二度語られるこの数字ですが、とりあえずすごいスピードで被害者が出ているということです。

作中で語られるはじめの被害者はドグーンが初めに登場した長野県善光寺のお寺のお坊さんです。この演出が奇妙なのです。そもそもお坊さんを惨殺するシーンを描いてしまうということが衝撃ではありますが、このお坊さん、作中の描き方を見るとかなりいいやつなんです(笑)ドグーンが現れたとき、周囲がのんびりしているときに状況がわからないながらもただならぬことが起こっていると最初に察知するセンスの高い人物であり、子供たちが無邪気に駆け寄ったのを助ける描写があり、さらに腰が抜けて動けなくなって本来ドグーンに踏みつぶされるはずだった老夫婦を何の気もてらいもなく助けた直後に僧衣を踏まれてそのまま踏み殺されてしまいます。つまりこのお坊さん、都合4人ほどの命をドグーンから救った後、普通に踏み殺されているのです。

しかしこれは作劇中の演出とするとかなり意図的に感じました。少し紋切り型の見方をすればこのお坊さんはここで殺される必然性がなさそうに見えます。なぜならまだ作品が始まってすぐとはいえ、このお坊さんは前述のとおり「ドグーンの異常性にいち早く気が付き」「子供たちを助け」「老人たちを助ける」行動を行っており、能力も高ければ、善性も高く、行動力もあるなど読者心理的に殺される必然性をほとんど感じないのです。いや感じないどころか、積極的に善行をなしたこのお坊さんがそのまま死んでしまっては「正直者は馬鹿を見る」に近いアイロニックな感情を感じてしまいます。そういった無情観非情観の演出としては大変功を奏していますが、それならばお坊さんとともにはじめから子供や老人をそのまま踏みつぶさせたほうが、ドグーンの倫理観を超越した非人間的な行動原理をうまく表現できるはずです。残酷病者だから控えたという可能性とともに、なぜ「わざわざ」人命を救助した僧侶を殺させたのかという引っ掛かりのようなものをずっと感じました。しかしこのシーンは作中の流れとしては無理のない描き方であり「気になるが、文句をつける程ではない」という何とも微妙な気持ちになります。わたしたちはそういう微妙な読後感を持たされ、武富先生の手の上で転がされているのです(笑)

ちなみに、お坊さんが踏み殺されていても周囲は異常と日常が入り混じったような対応をしています。急激にパニック映画のひとがにげまどうシーンに移行しないのです、そこら辺の描き方が妙にリアルであり、モザイク状に入り混じる恐怖と弛緩が却ってこの異常事態に奥行きを与えています。

そしてここはドグーンにたいする圧倒的なディスコミュニケーションを初めて感じる場面でもあります。ドグーンは目の前に立ちふさがるのが子供だろうが老人だろうがお坊さんだろうが全く構わず「ブゥゥゥゥンブゥゥゥゥン」とうなりながら、一定のペースで進み続けます。それこそ台風や大水が押し流すのが動物だろうと美少女だろうと聖人だろうとお構いないようにです。ドグーンは一切人間社会や人間の世界が持つ価値観に興味がないようにみえます。故に現代日本では聖職者であり、今しがたまさに人命を救助した真の聖人である坊主ですら何の躊躇なく踏み殺していくのです。

はじめに読んだときはどういうこと?やっぱ超古代文明って人間の宗教的な文明とそりが合わないの?人間の宗教嫌いなの?くらいの印象だったのですが、そういった感じすらないのです。なぜなら積極的にお寺を壊すとかお坊さんだけを殺戮するという事ではないからです。ちなみにこのドグーンが周囲にかまわずずんずん進む様子は第2話「ドグーン漸進」以降でかたられます。この漸進という言葉は少しずつ進むというような言葉ですが、神社の神主が一歩一歩すり足で歩くように、ひたひたと洪水の水かさが増すように、正に歩くだけの話がこの後数回語られます。その光景はある種神聖ですらあります。

すさまじい牛歩ペース、農耕文明よりもゆったりとした、古代の祭儀文明の儀式を見るような遅々としたこのペースこそ、ハニワットの魅力の一つにも映ります。ともかく、この「ドグーンが人間をあまりにも気にしない」傾向は作品を読み進めていくとより明確になっていきます。

その後青年団とかが犠牲になります。地元の青年団が出張ってきて、つるはしをぶっこまれるとか、トラックで突っ込むとかするのですが、ドグーンは物理的にあまりにも大きな干渉を受けると必要な程度反応したり威嚇する描写があるだけで、基本無感動、無干渉のまま漸進します。では人間に興味がないドグーンに対してなぜ沢山の犠牲者が出るかと言ったら、人間の方は積極的にドグーンをどうにかしようとしてちょっかいを出すからです。俺たちの大切な街を守るとか、弟分たちの仇とかいろいろ彼らなりのモチベーションはありますが、とにかく人間は自分たちの都合でドグーンに手を出して次々に死んでいくのです。ここら辺まで読むと新しい人間の集団がドグーンに立ち向かう事の方が不自然に思えてくるから不思議なものです。あーあ、嵐や洪水に向かって突っ込んでいくからだよー的なかなりシニカルな気持ちになって読んでしまいます。

歴戦のエキスパートの犠牲者

巻数が飛んで第二のドグーンが現れるときにも特徴的な犠牲者の姿が描かれます。妙義横川に現れた縄文のヴィーナス型の土偶が浅苧の黒滝の上にいるというので、山岳案内のエキスパートを伴って調査隊が向かうシーンです。この妙義横川のドグーンは移動はしないが人里まで届く強烈な悪臭を放つというこの手のパニックモンスターとしては非常にユニークな迷惑行動をとっているのですが、とにかく悪臭がひどいので、完全防備の化学防毒スーツとマスクを着用していくという話になった時「誰よりも妙義岳を知り尽くしている」と紹介されている前任者の山岳案内人の老人である片野さんが勧められた防毒マスクを「そんなもんつけては……五感が鈍る!かえって危険じゃ!!」と突っぱねるのです。

ふつうこういう感覚的行動原理を持つキャラクターは

①問題の程度を過去の経験から軽く見て自滅するか

②言葉通り過去の経験と培った野生の嗅覚によって難を逃れる

のが相場なのですが、なんとこの山岳エキスパートの老人、片野さん。ドグーンに遭遇したとき一人だけマスクを着けていないことによって被害を受けてしまうのです(笑)

いや、ここは笑いどころではありません。なぜなら、この時ドグーンに対して様子を見ようと不用意に石を投げた職員がいて、その職員の行動に怒りを誘発されたかのようなドグーンの煙幕「悪臭玉」の放出によって調査チーム一行は悪臭攻撃を受けるのですが、その攻撃が発動するタイミングを誰よりも早く見抜いていたのはこの老人片野さんなのです。小石をぶつけられた後、ドグーンの形状が変形して、攻撃形態になっても誰一人状況を察知できなかったのですが、片野さんだけが

「い、いかん」

「離れるんじゃ!今すぐ!!」「早く!!」

といって防御態勢をとっていちはやく逃げ出します、しかしマスクを着けていなかったため煙幕の被害を一人だけ受けるのです(死んではいません)。ここで、1巻のドグーンの最初の犠牲者だったお坊さんと構造がかぶります。二人とも、非常に高い能力を持ち、センス的にも危険察知能力にも問題がなかったにもかかわらず、かえってドグーンの被害にあってしまいます。上記の①でも②でもなく、「経験と野生のカンがあって、なおかつ事態を矮小化してなかったもかかわらず、被害を受けてしまった」となります。なんということでしょう。

うーん……もちろん物語上はお坊さんも片野さんも単に不運なドグーンの犠牲者のひとりであり、ドグーンも彼らだけを狙って攻撃した結果犠牲になったわけではない描き方をされているのですが……

ここである疑念がわきます。彼らはむしろ「様々な能力が高かったがゆえに」ドグーンの犠牲になったのではないかと。高い能力で事態に臨んだがゆえに却って「ドグーンに捧げられてしまった」のではないかという事です。

みんな大好きカメラ女子、松尾ユリカさん

最も象徴的な犠牲者のエピソードとして押さえておきたい話があります。一気に巻数は飛びますが第二、第三のドグーンが現れて第七巻に非常に象徴的な死に方をする少女がいます。「カメラ女子」こと松尾ユリカさん。めちゃくちゃいいキャラで、もうすでにドグーンの危険性と異常性がメディアによって知れ渡ったあとにたまたまドグーンと遭遇して危険を承知でドグーンをカメラに収めようとする目端が効く系少女なのですが、少し彼女のセリフを引用しますと。

「最低限の安全確保は重大」

「最大限の注意と最大限の冒険の完全なる両立!!これ成功の秘訣なり!!」

「あとほんのちょっと……近づきたいけどダメ!そのちょっとの欲が命取りになる!!」

「潮時間違えたら……ジ・エンド!! ここらで撤収!!それが叡智!!!」

すごくないですか?(笑)ふつうこんなセリフを立て続けに吐くキャラは間抜けな死に方はしないものです。なぜなら彼女は一般的な視点以上に安全確保に気を使っており、それに欲をかいて危険水域を踏み越えないような自制心すら持ち合わせています、引き際も心得ているのです。

がっ……ダメ!

無情にもドグーンの破壊行為のあおりをくらって死んでしまいます。死にざまもかなり間抜けです。この後で松尾さんの持っていたカメラのフィルムがもしかしたらドグーンの攻撃(ドグーンには攻撃の型や種類がある)を特定するのに役に立つかもしれないから、みんなで探すというシーンもあるのですが、頭部とご丁寧にカメラにまでがれきの直撃を受けて、松尾さんは息絶えています。はっきり言ってカメラから情報も得られなかったのなら彼女の作劇中の登場意義は「死ぬためだけに出てきた」「読者にドグーンの攻撃シーンを見せるためにだけ出てきた」というふうに読むしかありません。見事な死にっぷり、あっぱれな無駄死にっぷりといえるでしょう。

いや、というか。やはり彼女も「能力が高かった」から死んだのでしょう。

ちなみにぼくは10年以上前ですが市民と専門職向けに安全確保と救急対応のワークショップのインストラクターをしていました。都合100回以上はやりましたが、その経験から言っても「わが身の安全確認、安全確保」が有事に最も大切な行動になっています。お金もらって飛行機の客室乗務員さんたちにもそう教えてたんですよ?(笑)だからはっきりと安全確保した奴が真っ先に死ぬ、という描写は衝撃でした。

ここら辺の描き方がもう圧倒的にわかりやすいのですが、ドグーンは全く人間的な叡智すら通用しない相手だという事が超端的に示されてるのです。より正確に言えば、人間の都合を人間の叡智やスキルでおし通そうとするとドグーンには全く通用しないどころか、かえって被害を受けてしまうという事です。松尾ユリカさんは死にたくなければ初めから逃げればよかった、げんに素直に逃げている人たちは全員助かる描写もあります。ドグーンは人間を追いかけて殺すみたいなことはしないからです。しかし、カメラ女子松尾さんは写真を撮るという己の冒険心や欲望行動とわが身の安全を天秤にかけ、人類の叡智とやらで調整しようとしたのです。そういった恣意的な利得のバランスのとり方を、ドグーンは(構造として)決して許さないという事です。しかしそれすらも、演出上の出来事であり、作中の設定から読み解くとドグーンはやはり、逃げようが逃げまいが、邪魔されない限り人間個人に徹底的に興味を示していないようではあります。

第二のドグーン、妙義川横のドグーンのときに犠牲になった方野さんにしても、彼は事態を終始オーバートリアージして、むしろ一般人よりはるかに適切にドグーンの脅威をリスク判定していたともいえるのです。

現実世界において、リスク判定を誤った人間が被害を受けたり失敗するのは常ですが、『古代戦士ハニワット』作中においては常に高い能力を持ち、リスクを誰よりも的確に把握して、適切な行動をとろうとしていた人物から真っ先に被害を受ける構造になっています。ここら辺がとっても興味深いです。

ちなみにここで第三のドグーンこと猫鳴きドグーンがぶっ壊したのが風力発電なのも気になります。

普通、自然の神だか精霊だかが人間の行為に対して怒って破壊するというのなら、まずは壊すのは原子力発電所、あるいは火力発電所、化学工場とかではないのでしょうか?もしくはもっと人間からしても違和感を持つほど高度な科学文明的な象徴物(高層ビル群)でもよかったはずです、描写として社会情勢に鑑みて作者が控えた可能性はありますが、それにしたって風力発電はどちらかというと「エコ」なエネルギー装置です。つまり人間が自然に対してある程度配慮した仕組みです。それを真っ先にぶっ壊しに来るというのは、ドグーンたちが許せないのは人間的な尺度によって評価される自然破壊や自然の汚染の度合いとかではなく、彼らなりの基準で許せるか許せないのか勝手に決めているという事です。もしかしたら自然に対して「ここまではいいだろう」と線引きして破壊や調整を行うその人間の一方的な高慢さそのものかもしれません。

まあとにかく作品を通じてドグーンの破壊行為や殺戮はあまりにも非人間的なのだけれど、それが悪とか、懲悪とか、わかりやすい自然の怒りとかそういうたぐいのものでもないという事を感じていきます。いつも感じるのはドグーンと人間社会の間に横たわる圧倒的な無理解、関係のなさ、距離感、謎です。でもそこから目が離せなくなるのです。

なぜかな?と思いました。

なぜこのドグーンたちにこんなに心惹かれるのだろうか、と。

ジョーカーに見る人間性、ドグーンにみる非人間性

いままでウルトラマンやらそのほかのハリウッドのエイリアン侵略もの、パニック怪獣映画、ジョーカーなどのスーパーヒーローもののヴィランを見ていて思ったことがあります。

こいつら実は人間だな?という事です。

だって、人間のいる地球に侵略して、やってることは人間の支配とか殺戮とか人間の作った兵器や軍隊やインフラに対しての攻撃とかなんです。

それ人間のやることじゃね?少なくとも人間的な価値判断を背景に行動しているに過ぎないんじゃね?という事です。

ハリウッドの殺人鬼パニック映画はすきなものの、それにモンスターものとしてノリ切れなかったのもそういう気持ちがありました。殺人鬼は当然ながら映画に出てきて人だけを殺します。はい、シケー!もう、ぼくにとってその時点でモンスターとしては根源的に怖くないのです。なぜなら、意図が明らかで発想が人間の価値判断サイズだからです。

殺人鬼は人を殺したいから殺すのです。つまり人が大好きなのです、ネズミとか鹿を殺すより人を殺すのが好きだから人を殺すのです。つまりそれって人間じゃね?人間は人間が好きだから、人間的価値判断基準を持っているからこそ人間だけを選んで好んで殺すのです。もし人間だけを殺すエイリアンがいたらそれも人間です、または人間の一部です。単に現在の地球人ができない規模と方法によって事をなしているだけで、それは人間の所業なのです。

ぼくがバットマンの敵役ジョーカーに非人間的な異常性というよりも、高度な人間性を感じる理由もそれです。ジョーカーって単なる善悪判断の上手な人間のようにおもいます。ジョーカーがかっこいいのは混沌の使者とかではなく「悪の化身」だからです。パリッとしたスーツ着てるし。

悪しか為さないという事は、逆に言うと善について深く理解しているという事です。選択的に良いことをしないってことですからね。ジョーカーは善悪判断が極めて厳格な人間です。だからジョーカーは正義の使者バットマンと相性がいいのです。二人とも闇の世界の住人とはいえ、同じレベルで価値観を共有しあっている友達だからです。時には共闘もするでしょう。

だからそれはもう単に普通の立場の違う人間の話でしかなくて、ジョーカーが悪や犯罪にこだわる限り、真の異常者、混沌の化身ということではありません。それよりいいことをしつつ、まったく唐突に悪いこと(も)やるやつのほうが異常性が高い壊れたキャラだと思えます。正常と異常、善悪の判断基準が入り混じっているからです。人間的な価値判断を超越しているからです。そういうのが質の深い混沌存在、異常者です。人間的な価値判断に基づいて行動する程度のみが尋常ではない相手とはコミュニケーションが取れるので、ジョーカーだろうがハリウッドの殺人鬼だろうが、普通に人間的な価値観を通じてやり取りができます。

しかしドグーンは違いました。

もしかしたらエヴァンゲリオンの使徒やいやナウシカのオームの群れですら成し得なかったかもしれません。彼らも人間的に諒解可能な動機や意図を持たされて配置されたモンスターに近いと感じていました。しかしドグーンは圧倒的な人間無視の、コミュニケーションが取れない意図不明の謎のモンスターとして人間社会に現れてしまいました。高層ビルではなく、商店街を壊すモンスター!なぜ!?人類を襲うのではなく、ただ歩くモンスター!は!?ここがまず極めて秀逸です。

しかし、同時にドグーンはどうも全くランダムに動いているだけの存在ではないのです。ドグーンとはかなりコミュニケーションが取れないし意図も全く不明に見えるのだが、実はそれはそもそも完璧に分かり合えないのではなく、分かり合える方法がわからないだけではないのか、という構造がハニワットの作品を通じて何度か示されていきます。

失われた関わり

それがハニワットという作品の異常に深い魅力につながっています。つまり我々人間社会とドグーンとの間にはすさまじく大きなコミュニケーションの溝があるのですが、それは決して分かり合えないものではなく、分かり合い方を喪失してしまったのではないかという事です。しかも人間側が、一方的にです。

そしてドグーン対策の専門家、いわゆる「ハニワット」たちがドグーンに立ち向かうのですが彼らだけがかろうじてドグーンとの失われたコミュニケーションを伝承している集団なのです。

ハニワットが出撃するとドグーンは一応五分の条件で勝負を受けて立とうという姿勢を示します。時には勝負を誘うかのような行動をとることもあります!

一連のハニワット出撃とドグーン対峙の光景(特殊祭祀)を見て戸惑いながら「俺たちはいったい何を見せられているんだ」という警官隊のセリフがあります。ハニワット陣営は少なくとも不完全ながらもドグーンに対する処し方を知っているのです。つまり一般人である我々読者も作中の警官隊も「何かこの事態に対して適切なことが行われようとしている」ことはわかるのですが、それが何で、なぜこうしなければならないのかがわからないから「俺たちはいったい何を見せられているんだ」という理解と理解不能が入り混じったセリフを吐かざるを得ないのです。

しかし、え!?ハニワット達すげえ!と思うのはそういうシーンです。だって今まで倒せないどころかどう扱っていいかすらもわからなかった相手がちゃんとある種の軸をもって対峙してくれるのですから。どうやっても泣くばかりだった赤ちゃんが、ふとしたきっかけでこちらに興味を覚えて泣き止んだ瞬間に似るカタルシスがあります。コミュニケーションの灯が一瞬かすかにともった瞬間です。

作中にそれを示すかのようなシーンも沢山あります。ドグーンを囲む警備隊が「だまってみてろ、すくなくとも俺たちにはなんのすべもないんだ」とか「わかってきたぞ……」というシーンです。

つまりドグーンに対するコミュニケーションは注意深く、そして崇敬の念をもって観察していればだれでも「わかる」ことができるという仕組みです。しかしそれはこっちが徹底的に受動的に相手を理解して、あるいは思いだして合わせるしかない理解の仕方です。徹頭徹尾受動的な態度が要求されるのです。

蚩尤の好きにさせるしかないという見解を「本来の本来は」として語られるシーンもあります。そして人間の都合によって何かしようとすればするほど、ドグーンをめぐる話はややこしくなり、終わらなくなっていくのです。

人間のことを分かってよ、忖度してよ、気にしてよ、という要求は全く通用しないか10倍くらいになってしっぺ返しを食らいます。懇願も予想も分析も考察も裏目に出るでしょう。もしかしたらドグーンは非常に高度な知能を有しており、人間が飼っている犬のことをもはや理解できない以上にドグーンには人間のことを理解しようとするのは困難になっているのかもしれません。ですが、人間にはまだドグーンを理解する余地があるのです。すくなくともペットであることを自覚した犬や猫が人間のおおまかな意図にこたえるくらいのことをすることはできるようなのです。

ドグーンとハニワットの戦いは人間たちがドグーンに対するディスコミュニケーションを取り戻していく話となっていくはずです。

それはそのまま自然神や自然に対して古代の我々が知っていた忘れられたかかわり方を取り戻していくことに似ています。ハニワット作中では、それは祈りではないでしょうか。血と泥にまみれて祈る以外に人間は手段を持っていないように見えます。

人間が、どうしようもならない自然の摂理に対する唯一の、そして最大の手段は祈りです。高度な祈り文明社会だった古代においては土偶の意味は説明するまでもなく当時の人間たちの知るところだったでしょう。ですが、現代において土偶のフォルムから喚起される感情を正常に再現する機構が我々の心の中にないのです、なぜなら自然に対する祈りを全く喪失してしまっているからです。

ギリギリわかるのは埴輪くらいまでです。埴輪なら戦っているんだなあとか、喜んでいるなあという感情をまだギリギリ拾うことができます。埴輪は古代に置き忘れた、人間の精神のセーブポイントなのです。

だからハニワットは人間によって伝えられ、操られて、ぎりぎり超古代と現代におけるコミュニケーションのミッシングリンクをつなぎながら、ドグーンに対峙するのです。

その姿は人間社会と異界の橋渡しをする神官や巫女そのものです。彼らの「蚩尤収め」が「特殊祭祀」という言い方をされるのも納得です、あれは戦いという形の儀式なのです。儀式には犠牲が必要です、だから次々とハニワットの操縦者たちは無惨な死を遂げます。またドグーンと対峙する人間には神前に賽銭箱が置かれるかの如く、供物性しか付与されません。それならばより能力の高い、経験を積み、叡智を備え、そして善性の高い人間は最高の「贄」になるはずです。その犠牲、供物、贄によって神は怒りをしずめていきます。

ハニワットというこの異常に面白い作品が打ち切りになるのは漫画好きとしては耐えがたいことです。しかしどうにかしようとすればするほど蚩尤……ではなかった、打ち切りは反発してしまうのかもしれません。どこかにいるハニワット、助けてくれ……武富先生に武運をくれ……‼

ぼくは「終わったー!ハニワット連載の歴史がー!今、終わったー!」と地に伏して泣きたくはないんだよ……読み続けたいんだ、この物語を……!

「ドグーンの謎、絶対解き明かすからね」

といっていたコトちゃんに本懐を遂げさせてやってくれ……でも、そういう人間的な都合による恣意行為が一番ドグーンと相性が悪い。我々はただ祈るのみ、そしてアクションを買って、アンケートに高評価をつけるのみなのです。

非常に長い文章を読んでくださってありがとうございました。おわりです。

※11月2日に『古代戦士ハニワット』打ちきり回避、連載続行が決まりました!おめでとうございます!※

詳しくは

https://note.com/streetsysteman/n/n2582f0b91628

で記事にしています。よろしければお読みください。

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