【古代戦士ハニワット】祝祭。怒りと静けさ
始まったー!!
ハニワット連載継続の歴史が、今!
また始まったー!!!
『古代戦士ハニワット』この素晴らしい作品のファンたちがそれぞれ
「なんどが……⑨巻発売までに打ち切りを食い止めねば……!!」
「打ち切りめ……第56代蜂子王の名に懸けて……!ぜってえにハニワット連載継続させてやっぞ!!」っつって気合い入れてアクション読んで、読者アンケート送りまくった結果でしょうか。それともウイングはねたトラックの荷台で踊る巫女隊のように読者が一心不乱で連再継続を祈ったからでしょうか?
とにかく!!祝祭だ!!
※以下の文章は7巻までのネタバレを含みます※
うれしい!!その心の動きは
*前回のハニワットについてのノートの記事を作者の武富先生ご本人がなんとツイッターで拾ってくださいました*
この武富先生のコメントほんっと感動し、動揺した。
ぼくはシステマというソ連の特殊部隊の軍事訓練にも使われた古代のロシアの格闘技をやっています。システマでは呼吸法によって「Calm(カーム)」という落ち着いた状態にあることを最も重視します。
常に呼吸法で落ち着くトレーニングをしているといっても過言ではありません。それなのに……
このつぶやきを見て長野でコトちゃんに会って動揺しまくって戸隠神宮の中宮控室から飛び出してしまった凛センパイみたいに動揺しまくって呼吸荒くのたうち回ってしまいました。
「どうした……? もう……ロシア人のパンチ以外何事にも動じない―そう思っていたのが違って……動揺しているのか? たかが数年呼吸の修行をしたくらいで……」
ぼくの脳中にすみついたイマジナリ・ヤヨイ・オグナが落ち着いた声でかたりかけてきます。
「ペリメニ……お前はこの二年のTwitter生活で 悲しみや絶望……煽りなどを乗り越え―― 喜びや安らぎイイネなどを 祈りに触れて感じてきたはずだ」
「そのどれも人間の心がなければ感じ得ぬもの…… たまたまこれまで出会わなかった作者ご本人のコメントにぶつかったくらいでいまさら驚くことはあるまい」
「なにか……大きな連再継続記念活動が動き出している……我々はそれに心を開き―――向かいあうしかないだろう」
はっ……ビジョンのパルスを受けすぎて意識飛んでた。とにかく動揺してしまいました。そして原作のセリフ改編で勝手に遊んでしまってすいませんでした。うれしくてつい。
ところで『ハニワット』作中ではハニワット(埴輪徒)とドグーン(蚩尤)が毎回大迫力のアクションバトルを繰り広げるのですが、その前後で非常に印象的に、また繰り返されるハニワット側の「戦闘に対する心構え」があります。
それは落ち着いていること。そして心を開くこと。
ちょっと今回はこの内容を追っていきながら、実際強敵すぎるドグーンをどう対処したらいいのかを僭越ですが考察してみたいと思います。
対ドグーン戦闘法の心得
さきほど遊びながら引用してしまいましたがこの三巻のヤヨイ・オグナと凛の会話の中では凛に向かってオグナが
「凛が動揺したこと」「心を開くこと」という内容を話しています。
これに先立って一巻においても善光寺のドグーンに対してハニワット・フルを駆って一の駒として立てられた仁にたいしてヤヨイ・オグナの伝言をうけて仁が先走って(以下引用)
「(マズイと感じたら)すぐに、退け!」
「理性を決して失うな…でしょ?胸に刻み込んでいますよ」(引用終わり)
と答えるシーンがあります。ここは個人的に超名シーンです。このやりとりで仁という青年が、寺社会議の名目上の最高責任者に近い伝説上の人物ヤヨイ・オグナの忠告セリフすら遮って「わかってる感」をだして経験値を見せつけるように答えてしまうこらえ性のない性格を表しているという事がわかってきます。
しかしそれだけではありません。この発言から仁は血気にはやる初陣前の新兵であると同時に、実際に高い実戦的な戦闘訓練を受けた人物であるという二面性を持つ複雑なキャラクターだという事も想像がつくのです。「すぐに退く」「理性を失わない」という項目をあたかも何度も復唱させられているかのように(いわゆる原則的に)繰り返す仁の姿からは、まだ仁たち埴輪徒らの訓練シーンが作中で詳しく描かれる前の段階であるにもかかららず、すでに埴輪徒たちが戦闘中に形勢不利になれば「すぐに退く」というリスクマネジメント、アクシデントフローを重視した教育が徹底されており、そして「理性を失わない」というメンタル面でのクオリティーコントロールを受けている非常にレベルの高い兵士、戦闘員としての訓練を受けていることを読者に伝えているのです。
すごい。このカロリーのさらっとしたやりとりの描き方で非常に奥行きのある作品の背景の情報を一度に伝えています。そして、その描かれている内容がリアリティを持っているという二重の意味ですごいと思っています。極めつけはそのリアリティがリアリ「ティ」ではなく、単純にリアルから来ている武の純度の高さです。
ここでちょっとぼくの習っているシステマのマスター(大先生)ミカエル師の教えに照らししてみます。彼は必ず「生きて帰ること」を最大の目標に掲げます。つまりサバイブ、生存することが最も重要な任務であるという事です。そして、システマのトレーニングの在り方そのものは終始徹底して「理性を失わず落ち着いている」という状態を訓練することです。ミカエル師は実際の軍務経験者、戦闘経験者であり、ソ連時代のスペツナズという特殊部隊の将校です。つまり現実世界の経歴のある戦士です。その彼が主張している内容と『ハニワット』作中で描写されている戦闘の心得は非常に近い内容です、いやリアル中のドリアルなのです。
ミカエルのたたずまいはいつも非常に落ち着いています。彼の主張するのは「破壊の否定」です。
ちょっとシステマの内容に流れすぎました。もうすこしハニワットの戦闘にかかわる心得を描写しているシーンを見ていきます。仁は会敵の寸前に権禰宜と(以下引用)
まず奴さんの「意向」とやらを聞かなきゃな
いいか、くれぐれも「冷静」にな(引用終わり)
という会話を行っています。ここでは「冷静」に鍵かっこを使い言葉を強調しているほどです。そして「意向」を聞いて「冷静」にするということから想像するに、むしろこれから行われるのが戦いというより交渉であったり、別の平和的なコミュニケーションであるかのようにも見えます。
ハニワットは時にというか大抵はドグーンとぶつかれば壊されるか、やられてしまい、操縦者の埴輪徒もよくて半身不随、致命傷、普通は即死級のダメージを負う圧倒的に致死率の高い戦場であることを仁は知っているはずなのに「ぶったおしてやる!」とか「破壊してやる!」というような姿勢ではないのです。
どのシーンでも埴輪徒は果敢な闘志は見せるものの、まさに理性でうまく破壊衝動を抑え込んで、粛々と特殊祭祀に臨んでいるように見えます。
その仁が特殊祭祀で出撃したときに、破壊されたかつてのなじみのある街並みを見て、思わず暗い怒りを募らせてしまうシーンもあります。ですがそのあとすぐ蹲踞して、落ち着くのです。
どの戦闘シーンでもハニワットは必ず戦う前に「蹲踞」をすることで有名(?)です。ドグーンとハニワットの戦いを見守る機動隊が「蹲踞!?」と驚くシーンもあります。蹲踞とは相撲の時にするあれであり、ハニワットは蹲踞することで「場の空気を清浄に」してハニワット本人もドグーンも落ち着いて特殊祭祀、あるいは「おもてなし」に臨むのです。
戦いにおいて何が大切か。「おちつくこと」だという描写です。
ちょっと対照的に戦いに対する感覚の違いを提示しているシーンがあります。文字で描写がしずらいので切り抜きを引用します。(以下引用)
(引用終わり)
非常に対照的に戦いに対する姿勢が出っ歯の機動隊員安西さんと権宮司とでわかれています。
下の段の安西さんは一応機動隊ですから現実社会における有事を想定した戦闘訓練を受けた、戦いのプロという立ち位置です。でもはしゃいで興奮して、大声を出して「ぶちのめす」つまり相手を破壊することを主張しています。一方権宮司は理性を保ち、また仁にも理性を保つことを期待しながら、かつ無心で全力を出すように応援しています。
また面白いのはその安西さんを横でみる機動隊の隊員は安西さんのテンションを寧ろ心配するようにジト汗を流しつつ安西さんの方を(この時目の前では超常存在のドグーンとハニワットが大格闘してるにも関わらず)心配そうにみているということです、安西さんのテンションが明らかに異常、あるいはいきすぎている描写です。対になって上段のコトちゃんは同じくジト汗をかきながらハニワットをそれぞれの立場から応援する権宮司の横にいながら視線はモニタを向いています。つまり権宮司のテンションは高いがある種の調和の中で行われており、モニタの先の戦闘より異常性を感じていないからです。視覚的にもコマ枠を挟んで権宮司と安西さん、コトちゃんと機動隊員が対になるように配置されています。とても明確にドグーンにたいする戦闘における立場とあり方の違いを示したシーンです。
出っ歯の安西さんは好きなキャラでしたが、このあとそのテンションのたかさ、落ち着かなさが原因かどうかわかりませんが顔を上げちゃいけないところで顔を上げて自慢の出っ歯を残して光になってしまいます。安西ーー!!頭は低く生きねばならん、しかも神の前では。という教訓でしょうか。また江戸時代から出っ歯というのは「でばがめ」とよばれ、これは出っ歯の亀という人物の覗きで有名な犯罪者がいたことから常とう句化した言葉です。つまりでっぱはのぞき見の常習犯としての隠喩です。神様の変異を畏れ多くもみてしまい、神の光を目の当たりにした安西さんは出歯亀レベル100で綺麗に目から上を焼かれてしまうのでした。
脱線しました。ほかにヤヨイ・オグナから凛に戦闘の心得を説くシーンとしては凛とオグナの立ちションの時に「蚩尤の思いにこたえること」「生死に頓着しないこと」そして「生死に頓着しなかったとしても、死ぬことはあること」などを改め伝えられています。このシーンなど先ほどの仁の場合と同じく、ヤヨイ・オグナから出撃前の調整済みの埴輪徒に対するアドバイスなのですが、内容は埴輪徒としてはいつも聞いていて暗唱しているほど当たり前の事であって、真具土と仮具土の埴輪徒たちの練度の高さを示すと共に、埴輪徒は相手(オグナ)の言葉を遮ってその原則を復唱するというほとんど対になっているシーンです。しかし仁が単に電話でそれも権宮司の人づてに伝えられただけだったのにもかかわらず、なんと凛はヤヨイ・オグナその人とのプライベート連れション中にアドバイスを伝えられるなど明らかに待遇の差があります。これは凛とヤヨイ・オグナその人との心理的な距離の差であるとともにヤヨイ・オグナに対しての距離の近さがそのまま戦闘の実力の差でもあると取れる描写になっています。さらにここでリアルかつ残酷なのは「やれることやってもダメなときはダメ」と厳しい現実をはっきりヤヨイ・オグナから凛が伝えられているところです。これは凛が圧倒的にヤヨイ・オグナから可愛がられているのがわかると同時に、そのほかの優秀な仮具土の埴輪徒も全員「やれることをやって」もダメなことが多いという二重の残酷性が漂っています。
蚩尤収めは「おもてなし」ですので戦闘中は絶対に理性的にならなければなりません、冷静で居なければなりません、そうして心を開いて、精いっぱい全力を尽くし、蚩尤と対峙しなければなりません。
なぜならドグーンこと蚩尤に現れる最も強い感情は「怒り」だからです。
怒りとは
いわゆる土偶顔でほとんど顔色の変化がない蚩尤達ですが、ある感情をぶつけられた時は比較的速やかに呼応することが多いです。明確に示す感情、それは「怒り」。
そもそも蚩尤達は自然というか日本国土の神様的な精霊的な、あるいは日本国土そのものの「怒り」が原因になって表れたと作中何度も伝えられていて、それは謎の多いハニワット作中でもほぼ統一見解になっているようなのです。それにしては蚩尤が人間を明確に殺戮するなどの行動をとらないのは、蚩尤たちの精神が見た目通り土偶の時代のそれであり、つまり自然と人間が境界線なく混ざってた頃の神様の精神性で、神意としても非常にプリミティブな、災害や天災のような近代の人間スケールの精神性を超えた大雑把な表現をする精神体である、あるいは現象であるという事が原因であるように思えます。
じつは蚩尤には顕現のレベルがあり、ほっておくとさらにどんどん変身もしくはフェーズチェンジをしていくことを示唆しているシーンもありますから、怒りの段階がホスセリからさらに上がっていけばもしかしたら人間に対する明確な破壊活動を行うかもしれません。ですが、とりあえずは人間に対してつかず離れずの距離感で怒りを表明しているのが7巻までに登場したドグーンたちの基本的な「怒り方」です。
ドグーンにも個性があり、個体による精神的傾向は違うという発言も作中にあるので一概には言えないものの、それぞれのドグーンはなにかしら「怒り」を抱えており、それがゆえに人間社会に対して派手な行動をとり始めているのは間違いありません。
では気になるのは「怒りとは何か」という事です。ドグーンたちの怒りの原因が言語化されて「これのことである」「この事件である」という風に示されるかどうかはわからないものの、神様も人も「怒るメカニズム」「怒るシステム」は同じはずです。
それは「望みがあり、それがかなわない時」です。
赤ちゃんを見ればよくわかりますが、赤ちゃんは泣く(怒る)という行為で不満を伝えてきます。不愉快であったり、おなかが減ったり、眠たかったり、なんらかの衝動(欲、望み)があってそれが叶っていないときに周りの大人に知らしめるために泣くわけです。猫鳴き蚩尤も「何で鳴くのか」といわれたら怒っているから、要望を伝えているから鳴くわけです。蚩尤は現代人からすると高等な精神体、精霊もしくは神様なのでその表現の仕方は独特ですが、基本的なシステムは同じです。望みが叶わないから鳴いているのです。
赤ちゃんが幼児になればもっと明確に怒ります。おっぱいが飲みたいとき、抱っこしてほしい時、遊びたいとき、おもちゃに手が届かないとき、体が思うように動かせないとき。怒りとは常にその個体を統合する精神の欲望の発露であるとともにその能力の不足から引き起こされる感情です。
怒りは鎮めるしかない
蚩尤が怒っているという事ははっきりと要望があり、それが叶っていないから怒っているという事です。神様という偉大な存在でありながら、叶えることが能わない、手に入れられないことがある。それは何かというと、彼ら自身が鎮まること、穏やかになることです。
怒っているときに持っていない最大の能力は「怒らない能力」です。怒っているときの最大の目的は破壊や、泣きまくって不満を表すことではありません「怒らないようになりたい」のです。破壊して怒りを収めるために破壊するわけで、破壊が目的ではない。ぼくらが上司に怒られてロッカーを殴るのと同じです。殴りたいわけではない、怒った気分を鎮めたいけど自分で鎮められないからロッカーを殴ります。
怒りに伴う興奮から起こる破壊衝動は、実は怒りの解消それ自体を目指しています。騒がしくて寝れない子供のように、静かにしておきたいのに周りが静かにさせてくれないから怒るしかないのです。暴れるしかないのです、鎮まるために。
蚩尤の対処法について権宮司が
「ほんらいは仮具土の埴輪土もつかわずに人の手で納めなければならない」
「本来の本来は、蚩尤のさせるがままにさせておくしかない」というような内容を語るシーンがあります。
怒りは気が済めば必ずエネルギーを消耗して収まるので、もちろんそのまま暴れさせておけば怒りの度合いに応じた暴れ方をした後蚩尤現象はきちんと収まるはずです。だから蚩尤を収めようというのはその怒りをちゃんと人間にぶつけてもらって、それが「おもてなし」という事なのでしょうが、できるだけ早めにコンパクトに気を散じて「リラックス」して帰ってもらいたいというような意味だと思っています。
怒りはそれが神だろうが人間だろうが「個」を持つ意識ならば必ず生じる現象です。なぜなら「個」には自己保存性があり、そのための欲求があり、そして必ず何かしらかなわない望みがあることから生じます。だから基本的に精霊も神様もめちゃくちゃ怒る構造を持っています。
神の怒りに相対する埴輪徒達は超常の戦士でありかつ神の意向にこたえる神官でしょう。極限まで肉体を鍛え上げ、ばかりか徹底的に心を鍛え上げて平常心を求められるのは正確に技や術を繰り出すための優位性があるからというばかりではありません。蚩尤との対峙、つまり特殊祭祀はその本質が「おもてなし」であり「怒り鎮め」であるから神の怒りをその身に存分に受けて清めるための静けさが必要になってきます。
ハンカチについたインクの染みを洗う水の量が、インクの量以下であったらまずきれいにすることができません。蚩尤収めの実戦部隊である埴輪徒と特殊祭祀チーム達はその精神的質量・精神的容量が神の怒りに匹敵する以上のキャパシティーがない限り蚩尤は収まることはないのです。神の怒りを飲み込むほどの静けさをチーム全員で共有しておかなければ特殊祭祀は不可能といえるでしょう。だから彼らは仲間を惨殺されても顔色一つ変えずに一心不乱に祈り続ける。
作中に示唆されているところによると、真具土の埴輪徒は神と名前を交換して、つまり神様そのものとも受け取れます。
それ聞いて思ったけど、そりゃあ怒り収まんないかもしれん(笑)
やらかした部下に対してめっちゃ怒ってる部長がいたとして、同格のほかの部長がでてきて「まあまあ」とか言っても、部下に対して怒ってるんだからその怒りは別の形に変化するだけで基本的には解消しないみたいな感じなのかもしれません。「なんでお前やらかした部下をかばうんだよ!」って感じで余計話がややこしくなってしまうかも。
ハニワット作中で感心するのは縁起によって生じた「怒り」が、ごまかしやさらなる暴力では決して沈静化しない構造を描いていることです。つまり自衛隊が出てきてボンボン大砲を蚩尤に対して打ったって、構造的に怒りが増すことはあれ、散じることはないでしょう。なぜなら怒りの原因が解消されていないからです。
相手の怒りを鎮めるには、その怒りの沈める水量の静かさが必要です。怒りを飲み込む静かさが、つまり落ち着いておらなければなりません。そこに別の感情のノイズ、恐れやその他の感情を持ち込むのも厳禁です。
だからヤヨイ・オグナや宮司たちは
「理性を失うな」「心を開け」「意向を聞いて」「冷静に」というわけでしょう。
身を清め、理性を保ち、様々な悪感情に取りつかれず清浄な精神で精いっぱい神の怒りと向かい合うという事です。そうしてはじめて「生きるか死ぬか」を超えて神と対峙できるのではないでしょうか。まあ、人は皆必ず死ぬし、『ハニワット』では「だとしても」死ぬことも多いんだけどね(笑)
祝祭
今年5月まだ私がハニワットを知らなかったとき、ハニワットが打ちきられるとの情報を聞いてハニワットファンさんたちの心にはやるせない思い、どうしてなんだと言う忸怩たる思いが募ったでしょう。
もしかしたら怒ったかもしれません。この名作をまだ読みたいのに、まだまだなぞも伏線も全然回収されてないのに、打ちきられて読めなくなってしまうことに、願望の終焉、読者としての能力の限界を感じて憤った方もいたかもしれません。
でも真摯に、騒がず慌てず粘り強いファンの皆さんの、ヒタヒタと皮がうねり嵩を増すかのような静かで熱心な連載継続祈念活動が続き、葛藤を乗り越えて、鎮まった態度でハニワット連載を望んでいたからこそ、ハニワット連載継続の果実が実ったのかもしれません。
武富先生がまさに埴輪徒として乗り込み、生命と精神の限りをつくし必死で戦い続けるハニワットという作品に、ファンの祈念が届いたから打ちきりというシユウの荒御魂を(とりあえず)収めることができたと考えるのは、いささかドラマチックでしょうか。
ともかくハニワットに関わられた全ての方々の力なのでしょうけれど
ハニワットが打ち切り回避して連再継続して本当にうれしい。
実はちょっといち読者としては諦めていました。でも打ち切りになっても仕方ないという事ではなくて、もう「打ち切られても打ち切られなくてもぼくはこの作品が好き」と思える状態でした。内心打ちきりかどうかを問わない姿勢で作品とそれに関わられる人たちを応援していました。
ハニワットのファンたちがひたすら無心で応援したその祈りが届いたのだとしたらうれしいですよね。
この面白い作品がうちられなくて本当によかった。
ドグーンたちの今後の展開、変形に変化、変身、さらに激しさを増す戦いに新しい?ハニワット、寺社会議の動向、ドグーンの謎……
山のような伏線が一つ一つ丁寧に紡がれる、超重量級のリアリティを持つこの珠玉の物語を読んでいきたいと思います。人生でハニワットを読む楽しみがあるという事に感謝します。
おめでとうございます、ハニワット、双葉社さん、ファンの皆さん、武富先生。そしてハニワットのにわかファンだけど、いちふぁんのぼく…おめでとう。
これからはひたすら無心でいちファンとしてアクションの発売と単行本の発売を待ちます。
心を開いてページをめくってこの希代の傑作が、作者の武富先生の思う最高の形で完結するまで読んでいきたいと思います。
お祈りしております。お祝いいたします。
長い文章読んでくださってありがとうございました。