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「フェイクドキュメンタリーQ」ミステリ脳で勝手に読み解く: 補足・書籍版雑文

書籍も発表から一ヶ月経ったので、もういいかなと思いましたのでこちらを。

このシリーズを、動画版の内容を無理やりミステリ的に解いているわけで、追加情報のあるらしいこの本をどう扱うか……と考えながら一読してみたのですが、あらぬ方向から大いに困惑させられてしまいました。詳しくは後述します。

伏せてない件

どう見てもカバーにデカデカと書いてある「この人、行方不明」が書名としか思えないのですが、これはサブタイトルですらないのがまずシュール。

それはともかく、巻頭には『独白』と銘打ったまえがきがあり、フェイクドキュメンタリーQの「メンバー」を名乗る人物が登場するものの、当人が誰かについては「名前は伏せさせていただきます」とのこと。
これには納得です。この強引推理シリーズのまえがきで書いたのですが、「フェイクドキュメンタリーQ」の特徴の一つは、動画の内容から制作者の姿が見えないことにある。現実としては寺内康太郎監督や皆口大地氏が制作しているということは当然ですが、動画自体からはその姿が見えない。動画自体を考えれば誰が作っているかなどわからない。

というわけで、ああやっぱりあくまで制作者の正体は不明なんだな、と納得したわけです。だから、この本の著者名も「著: フェイクドキュメンタリーQ」という事実上の匿名なわけです。なるほどなるほど。
ここで「こんにちは、皆口大地です!ということで皆様、フェイクドキュメンタリーQのお時間がやって参りました!!」等と名乗られても困りますもんね。


という感じで納得しつつ早速1篇目「封印されたフェイクドキュメンタリー」を読みはじめたのですが。
しかし、こともあろうに、そのページを開くや否や目に飛び込んでくるのが「寺内康太郎」の5文字。

伏せてねえじゃねーか!

と、困惑してしまったというのはまさにこのことです。
というか、私が今まで見てきた「フェイクドキュメンタリーQ」は一体何だったんでしょう。


困惑する件

というわけで、本書は「フェイクドキュメンタリーQ」の動画を作るメンバー(つまり前述の強引推理記事で「動画制作者」と読んでいる人達)が制作した書籍、と考えると無視できない大きな問題があります。

まずはもちろん、寺内監督を始めとした制作者の名が明記されていること。

前述の通り、Qの動画内では寺内監督等が顔を出したりなんてしないじゃないですか。動画の中に名前が出てくることもない。
それが書籍では堂々と名前が出てくる理由が気になる。こっちで名前が出るなら動画で堂々と顔を出しててもいいはずです。

監督やその他スタッフが登場し、怪奇映像等の由来・いきさつ・いわくについての取材を敢行する。これは要するに「ほんとにあった!呪いのビデオ」を始めとした、一般的なホラードキュメンタリーの作りです。
「フェイクドキュメンタリーQ」の動画の作りはもっと異質なものと私は感じています。つまり普通であることに大きな違和感がある。

次に、「追加取材」による情報の存在です。

本書では、動画で公開済みの内容に付け加えるように、「追加で行った調査結果」だの「視聴者から寄せられた情報」だのが登場します。

しかしですね。
動画の方で、紹介されるものの追加取材なんてされていたでしょうか?
動画では、大半がどこからか持ってきた変な映像やら何やらを、多少のテロップ等を付けただけでそのまま流してるだけじゃないですか。
時折動画制作者が撮影したと思われる取材映像も登場しますが(Q5「鏡の家」とQ-Ex「フィルムインフェルノ」、Q2-4「怪談」、Q2-7「テイク100」、それと本書に続いて公開されたQ2-8「Mother」。こうみると第2シーズンに多いのがわかります)、これも概ね分量としてはごくわずかです。
基本的に、踏み込んだ独自の追加取材は動画に全く見られないのです。

独自調査しているなら、それも動画にすればいいはず。しかし事実としてそんな動画はない。となるとなぜ書籍だけにそんなものが書いてあるのか。

さらにもう一点。「視聴者から寄せられた情報」です。

「動画の公開後、多くの情報が寄せられた」なんて感じでたっぷり証言やら資料やらが登場しますけど、「フェイクドキュメンタリーQ」は視聴者からの情報提供フォームなんてものを用意していたでしょうか?
皆さん御存知の通り、ないですよね。
本文中では「SNS経由で」というような記述しかないのですが、Twitter……じゃなかったXのDMにでもどしどし応募されてきたんでしょうか。

まあDMもありえない話ではないですが、動画中で紹介した映像等の不明点について動画制作者は追加の取材が必要で、視聴者からも情報提供が欲しかった、と本の内容からは推察されます。
それなら然るべきルートを用意して大々的に告知の上で募集するはずです。

とまあ、ゴタゴタと書いてしまいましたが、要は単純なことです。
前述のようにふつうのホラードキュメンタリーみたいな形式をとっていることで、この本と現実の「フェイクドキュメンタリーQ」との乖離が無視できないものになっているのですよ。

はて?となる件

というわけであまりに不可解なため、これをどう考えればいいのか、と新たに大きな謎が生じてしまいました。
で、この問題についてどう考えればいいか検討してみたい。

というわけで例によって無理やり推理を始めることにします。

さて、まず前述の問題点について動画と書籍を比較検討し、何らかの見解が見いだせないか考えてみます。

1. 制作者名の明記について

動画:制作者への言及なし
書籍:寺内康太郎、皆口大地、福井鶴、遠藤香代子の4名が制作者として明記される

各篇ごとに誰が関わったかをわかりやすく明記して書籍は展開します。
一方で、前述の通り『独白』に登場する「メンバー」さんは「名を伏せる」と書いている。ここは何とも微妙なズレです。

さらに本文中では「寺内康太郎が取材に出向いている」ということが度々明記されます。つまり寺内監督により取材映像が度々撮影されているということを示している。

これが、独自取材の映像が極めて少ないという動画の実態とも乖離を生じています。
取材映像を撮っているのになぜ動画には入らないケースが多いのか?一方でこの書籍にはおそらくその取材映像にあたると思われる内容は多く含まれる。
御存知の通り「フェイクドキュメンタリーQ」の動画では、「不可解なものを大した説明もなく見せる」という内容が大半を占めます。
そこにその取材映像が入っていたなら動画もわかりやすくなったはずですよねえ。

2. 追加取材の存在について

動画:追加取材を含め、同様の内容を扱うことはなし
書籍:動画内容と追加取材の内容を併記

前述の通り、動画の内容は「不可解なものを大した説明もなく見せる」とうものが大半です。
では追加取材とは何のためにするでしょうか。当然その不可解なものに可能な限り説明付けをするために行うはず。実際に書籍ではそうなっている。

すなわち、動画の内容からは説明付けを行わない傾向がある以上、追加取材自体も行われているように思えないのです。
それが、書籍ではそれらしい追加情報がついてわかりやすく・・・・・・なっているじゃないですか。なぜ動画ではそうせずに説明付けを行わないのか?
せっかく取材してくれているなら、どうして動画のかたちでお出ししてくれないのでしょう。



……とまあ、これらについて乱暴な解釈はできます。「1. 制作者名の明記について」については、理由は知らないが、動画では出さないけど書籍では名前出してOKというならそうすればいい。「2. 追加取材の存在について」は、追加取材をしたければすればいいし、書籍にだけそれを記載してもかまわない。
動画と書籍は全然別モンだよ、という姿勢かもしれません。
制作者のほうがそうしたけりゃすればいいのです。

しかし。
この点だけは確実におかしいじゃないですか。

3. 視聴者からの提供情報について

動画:提供ルート自体が存在しない。動画化もされていない
書籍:証言・資料双方の追加情報が提供されている

これだけは制作者達だけの問題にはできないのです。
言うまでもなく、実際に視聴者から情報・資料の提供が行われなければこんなことは成立しないからです。

「フェイクドキュメンタリーQ」は基本的に動画として公開されます。
しかし、「公開した動画に対する視聴者からの情報」を動画にしたことはない。
書籍からすると、大ボリュームの提供情報を送った視聴者もいるわけです。
しかし、それだけやる人がいたところで、動画への採用率はゼロなんですよ。
入力フォームもない、それでも送ったところで動画にはしてくれない。今回書籍が登場するまで、まったく触れられてもいない。
なのに太っ腹に情報提供をする視聴者なんているでしょうか?
普通はそんなことしようと思いません。

となると、この提供情報はどういう意味を持つのか、ということになります。例えば、可能性としてはこんなものがあるでしょうか。

①動画にしてくれないが提供した視聴者がたくさんいた
②実は動画以外の形で視聴者情報の公表を続けていた
③実際には視聴者からの情報は存在しない

まず①は前述のとおり視聴者が非常に太っ腹でなければ成立しません。可能性は低い。
②について、たとえばこのnoteのようなYouTubeやX以外のSNSで公開されていた、とかオカルト雑誌系で記事があった、とかなら成立するでしょう。しかしそれらは確認できない。そもそも既知のSNS側から誘導・告知されなければおかしいですね。なにせ本文中でも「SNS経由で」の提供とあります。なら募集もSNSであったと考えるのが自然。
確認する限りではこちらも可能性は低い。

と、こう見ると③の可能性しかなくなってしまいます。

③であるとするなら、それはどういうことを意味するかというと。
本書は、「視聴者による情報」という形で、既に動画化された内容に、嘘の情報を付け加えていることになる。

ひとまずそれを前提として考えてみましょう。では、「追加取材」の信憑性も大きく下がることになる。
しかし、両方をウソ情報だとするなら、なぜ「追加取材」「視聴者提供」と別々の形をとっているのでしょうか。
ここで、それぞれの内容を整理してみます。

視聴者提供によるとされるもの

  • 「封印されたフェイクドキュメンタリー」

    • 遺影・ビデオの目撃情報

  • 「オレンジロビンソンの奇妙なブログ」

    • 関連する別のブログの情報

  • 「フィルムインフェルノ」

    • 映像を補完する周辺情報(提供情報に基づく追加取材を含む)

追加取材によるとされるもの

  • 「BASEMENT」

    • スタッフ内での類似事件の取材記録

  • 「ノーフィクション」

    • ライターによる取材記録

これを見ると、「取材記録」という形式の整った情報が「追加取材」、そして第三者の手による散発的な情報が「視聴者提供」となっています。
さらに、「追加取材」とされたものを見ると、「BASEMENT」は失踪事件、それと「ノーフィクション」は映像が既に作られていた事件です。従ってこれらは、動画制作者以外からも取材されている方が自然であると言えます。
一方で、それ以外は表だった事件とは言えず、ならば体系的な取材記録はない方が自然であると言える。

となるとこれは単純に、「どちらであれば自然か」によって分けられているように思われる。
……とだけいうと言いがかりのようですね。ウソでなく実際にそうであれば、自然なのも当然です。

しかしこう見てみると一つ重要な矛盾、不自然な点があることに気づきます。
視聴者提供とされた「フィルムインフェルノ」も、「BASEMENT」同様の失踪事件であるという点です。


ひとつの違和感

刑事事件、それも物証ありの奇妙な事件となれば、ほかのライター等による取材記録がここに含まれてもいいはず。
とはいえ「フィルムインフェルノ」の追加情報はかなり広範にわたり、体系的な取材記録がないのは無理のない話と思えるかもしれません。

しかし重要な点が一つあります。この映像・音声は、ルポライターの橋本という人物から入手されているのです。

すなわち、橋本はこの事件の取材をしている。ならば取材記録があるはずです。しかし文中からは、橋本がどんな取材をしたかがわかりません。
「追加情報」としては、まずは橋本自身の証言だとか、(存在するなら)橋本の執筆した記事などが登場すべきではないでしょうか。でもそれはない。

これではまるで書籍の執筆者は、橋本が映像の提供者であることしか知らないかのようではないですか――動画の視聴者に過ぎない・・・・・・・・・・・私と同じように。

さて、橋本による取材情報が無い理由は何でしょうか。
それは、書籍の執筆者は、橋本から新たな記録を入手したり、橋本の証言を得ることができないからではないか。
動画制作者は、橋本の取材も映像の入手もできたのに。

橋本による体系的な取材記録が入手できず、複数の散発的情報という形でしか記述できなかった。「フィルムインフェルノ」の追加情報が視聴者提供となっているのはそれが理由ではないでしょうか。なぜなら、内容からするとそのほうが自然だから。

そして、もう少し憶測を重ねますと。
書籍の執筆者は、橋本自身による取材記録が無いという決定的な不自然さを隠蔽するために「追加情報」を「複数の、複雑に関連した情報」として構成する必要があったのではないか。視線が橋本の側に向かないように。
そう考えるなら、「追加情報」の信憑性そのものが大きく低下することがわかります。

というわけで、それを最大の理由としてこう結論付けます。
この本は「フェイクドキュメンタリーQ」の制作者が書いたものではない。
この書籍版で付け加えられた内容は、ウソである。
すなわち、この本自体がフェイクである。


……ここまで読んでくれた方にはおわかりの通り、こちらの駄文、この記事シリーズの「正体不明の動画制作者」という前提を崩そうか、崩さないためにはどうしようかというしょうもない理由で書きはじめたのですが。
その割には結構変なロジックが展開できて私は満足です。すいませんね毎度毎度。

というわけで、ここではこの言いがかりを結論として、以降の記事でもあくまで動画の内容を基に考えていこうかと思います。





ただし。

「情報提供のフォーム等がない」という単純な事実に着目すれば、上のようなことは簡単に推測が可能です。
だとしたら、そんなすぐにバレるようなウソをつくのはなぜなのでしょうか。
そうすることに、何らかの理由が存在するのか。

と、余計なことを考えつつ本書を見ていると、ちょっと考え方を改める必要があるかもしれないことに気づいたのです。

おまけにその考え方に基づけば、本書がこんな内容になっている理由が説明できる。上でなんとなくスルーしてしまった、「何故か表記される製作者名」についても、その考え方を取ればちゃんと説明できるのです。

というわけで、先ほどの内容は次のように訂正します。

この書籍版で付け加えられた内容は、
ある情報を除いては
ウソである。

さて、その特定の情報とはなにか?
そのことについては、該当する動画の感想記事に続いて書こうと思います。だから早く書けよ
ということで回りくどい予告なのでした。


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