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書きたいこと

・宗教性と自然感

先日、熊野古道のうち小辺路と呼ばれる道を歩いてきた。ただ歩くだけではあるが、ひたすら歩くことで少しその土地と同化できた気がした。

熊野では那智大社の御神体が御滝であるように、岩谷や大樹、水といった自然そのものを崇拝するアニミズムの姿が数多く残されている。その感覚は「なんかいいな」「落ち着く」といった無意識に肯定してきたものとつながり、そこに日本の心象風景があふれていることに気づいた。
(中略)
巡礼を終えたとき、いつも"空っぽ"になった自分がいた。いろいろな出会いと経験が、それまでと違う立ち位置でものごとを見る目を養い、無条件にこう思えたのだ。
「大丈夫」「まだやっていける」
巡礼の醍醐味は、死生観の狭間で過去から紡がれた物語のなかを旅し、生きる力を取り戻すに至る道中にあるのではないだろうか。

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心の拠り所はないよりあった方がいい、と思う。それが宗教であるべきだとは、これっぽっちも思えないが、古くからある宗教性みたいな価値観から学べることは多いのではないだろうか。とか、すでに研究され尽くされている分野なのだろうが、自分なりに掘り下げて考えてみたいと思っている。

・アウトプットしたいしたいと思いながら

早起きできた日はモーニングページという、とにかく思い付いたひたすら事柄を書き続けるということをやっている。朝の余裕がある時間次第ではあるがA4を3枚程度書きまくる。内容は重複することも多いし稚拙な文章だか、そんなことはお構いなしに書く。そんなことをやっていると、普段の細々した雑務に気をとらわれなくなる。雑務は雑務らしく、早く片付けてしまおう、という気になる。それで仕事の質や処理速度が上がったかどうかはわからないが、夜になって、ひたすら思い悩むことは無くなった、と思う。書くって瞑想なんだなと思っている。でも、毎日同じようなことを書いていて自分の成長のなさに何だか情けなくなることが多い。あとは、描写力のなさに悲しくなってくる。

創造の井戸を満たしておくには、積極的にイメージを追いかけること。アートは物事の細部に注意をこらすことによって生み出される。よく、アートは苦しみから生まれるといわれるが、それは、苦しみが細部(たとえば、失った恋人の痛々しいほど美しい首の曲線)に注目するよう強いるからだ。もちろん、アートには、広範な手法や壮大な枠組み、偉大なプランといったものも欠かせない。けれども、私たちの心に居残りつづけるのは、細部に対する注意なのだ。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。 by ジュリア・キャメロン

物事を抽象的にしか捉えられておらず細部に注目することができていないからアウトプットに対する苦手意識がどんどん膨らむのだろう。失敗してもいいから、とにかく挑戦しようと思う。とか、何度も言い聞かせてはいるのだけれど、なんだかなぁ。

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